A diary 8/27その⑤

敵や味方の存在というのは、大体、利害関係によって生まれます。

 

例えば「神様、お願いします」とお願いする人は、「従順や忠誠を差し出す代わりに、私に利益を供与してね」という取引を一方的に成立させようとしています。

 

「自分が、偉大な神様と取引ができる(対等である)」と思っている辺り、あまりこの人、神様を尊敬していないなということがわかるのですが、欲望はしばしば人によって「肯定」されうるので、そういうこともよくある景色になります。

 

私の場合は、仮に偉大な神様という存在がいたとしても、取引をしたくありません。

 

なぜなら、相手の素性が不明だからです。どんなに偉大でも、強くても、どういう背景を持っているのかが確定しない限り、安易に取引はしません。

 

取引はしないけれども、それぞれ存在しているのならば、ある程度お互いに影響を与え合ったり、干渉があったりすると思うので、素性のわからない相手に対しては大体「勝手に上手くやっておいて、こっちはこっちでやるから」というドライな関係・距離感を持つようにしています。

 

そういったドライな関係をいろんな関係者と持ったとしても、利害衝突というのは、普通にあります。

 

そこで、利害がマッチしない相手と、いちいち敵対するのはとてもめんどくさいし、不毛です。

 

「自分の欲は満たされるべきだ!これは正しい欲求だ!」ということを本気で信じ込んでいる人は、おそらく利害衝突する相手は「敵」にしかならないのだと思います。

 

しかし、世界は誰か一人の欲を満たすために存在しているわけではないです。言い換えると、「欲を満たすという単一軸で動くと、意識が飛ぶまで突き抜けちゃう」から、「その主体は存在ができない」のです。

 

欲を満たす軸は、万能な道具ではなく、他の軸との共存という見方をせざるを得ないので、利害衝突があるからといって、いちいち相手を敵認定して、戦ってる場合じゃないんです。

 

利害衝突なんて、空気みたいな存在で、いつでもどこでも誰とでも起こりうるものです。昔から味方だった人が今は敵になってるとか、よくあることです。

 

なのでもし誰かが敵に見えたとしたら、まず次のメソッドを発動させます。

 

それは、「敵である相手を身内だと考える」ということです。

 

嫌だよ!無理だよ!となるのは自然ですが、先ほども言ったように、利害衝突はいくらでもポンポン起こりうるので、その相手は本当は敵じゃないんです。

 

解釈の問題で、「身内との問題が発生している」という認知をまずします。

 

相手は身内なので、どうするかというと、「協力して課題解決しよう」という志向を持つようになります。

 

もし相手が「打ち倒すべき悪の権化」なら、殺すのが正しくなりますが、「お互い困ってる身内」だとすると、わかりあおう、わかりあえないなら、話し合って相互理解を深めよう、という行動が起こります。

 

で、お互いのこと、自分たちが置かれている状況について、正確に知ることができたら、合意を持って「じゃあこれだけの我慢や犠牲を払おう」という両者の合意アリの意志決定ができるようになります。

 

このようにすると、平和が維持されます。

 

これは別に、利害衝突を起こさないようにするメソッドではありません。

 

空気のようによくある利害衝突がこじれても、平和を維持するためのメソッドです。

 

なので、元々殺し合い上等の人からすると、このメソッドの価値はあまり意味がないでしょう。

 

殺し合いをして、その果てに何があるのか、空虚以外のなにがあるのか、という点について知ることができれば、価値を感じるかもしれません。