我慢というと、なにやら根性論みたいで嫌だなぁと思う人は多いと思います。嫌な事がなくて、心が軽い方が幸福感を感じやすいです。
私もあまり我慢が好きではないのですが、我慢できる許容量は大きくしています。これが無いと、何らかの道を歩むことが無茶なことになりますから。
何かやろう、と思って前に進むと、当然ながらアゲインストの風圧を受けます。自分が高速で動いているんだから当然です。
そして、当然ながら道路が1本道じゃないので、直進すると必ずいつかは障害物にぶち当たります。私も含めて人間は構造上盲目なので、迷路の壁にもハエみたいにガンガン当たります。
そういう障害物に当たったら、基本、道が続いてる方に避ける(道が左折していたら左に曲がるように)か、もしくは破壊して直進するか、という選択になります。
この際、「盲目で、障害物に当たった」という事実に対して「私はくじけて失敗した」と解釈する人はおそらく少なからずいると予想します。ハッピー楽ちんルートを歩きたい期待をしているからです。
障害物があったら、単に避ければ良いですが、人間は勢いよく直進することに快感を覚えやすいので、「一旦スピードを落として(あるいは止まって)次の方向を見出して、曲がる」というアクションはストレスになり不快な行動です。
このストレスを受け入れる程度の、我慢ができないと、そもそも「人として何か生産的なことをやろう」という趣旨の企画を立てることが無理筋になってしまいます。
私は強いストレスを受け、その代わりに本当にやりたい事を思いっきりやりました。そのプラスがなければ、我慢のマイナスを受け入れることと帳尻が合わないからです。
私は最初から進んで、ハイコスト・ハイリターンの激しいゲームをしようと思ったわけではなく、めっちゃハイコストな状況に追い込まれたから、それに対応するために、そのような土俵に立った(立たざるを得なかった)ということです。
今、冷静に思い返すと、この我慢(ハイコストを受け入れる)は、成功のためには必ず必要になってくる重要要素であるな、我慢して良かったな、と思っています。
自分を実験体として扱っていたので、かなり負荷をかけて、心も壊れ気味になってうつ病も経験しましたが、限界を超えない程度の安全な範囲で、我慢する(というより我慢できるようにする)のが、子供たちに伝えた方が良い情報だと思いました。
そもそも好きなこと、やりたい事が見つけられないよ、という子は、大きな成功に手を伸ばすのは止めて、我慢もそんなにしない、小さいスケールでの活動を心がけるのが良いと思います。
別にスケールが小さい人生でも、細微にこだわり質を上げるとか、いくらでも規模の他に方向性はあるので落ち込まなくても大丈夫です。
そういう私の日常はニートで、数学ほっぽってゲームとかしているし、そもそも行動をほとんどしないので、スケール的にはかなりちっぽけです。
ただ、自己vs世界というめっちゃ広いフィールドで生きているので、これはなかなか一筋縄ではいかない難しさと楽しさがあります。
このように、我慢ができない、というのはかなり厳しい状況です。
ある人を、「我慢ができない」+「許容範囲以上の負荷をかける」の条件下に置いたとき、大体、世界を恨むことになります。
人は自分で何とかなることなら責任を負うことができますが、手に負えないことは必死で他責にする傾向があります。
実際に、親から虐待を受けているような子は、「他責にしやすい程度の高負荷がかかっている」「親から攻撃を受けているという事実がある」の2点より、世界を恨みます。
そして、「自分がこんな目に遭っているんだから他人もそうなるべきだ」「そもそも自分以外は(あるいは自分でさえも)間違っていて、破壊されるべきだ」という強制共感や、破壊衝動が生成され犯罪行為を正当化、実行します。
私も、環境次第では、いくらでも犯罪者になる素質はあると思いますが、たまたまそうならなかった、というだけで、又、今は世界を恨んでいません。
この「世界を恨むか、否か」の分水嶺を超えると、もう戻ってこれない可能性が高いです。プーチンなんかは、戻れないことがわかっているので、悪の世界に居を構える態勢を早い段階で取っているでしょう。
戻ってこれない可能性が高いと言いましたが、これは決めつけかもしれません。戻ってくるメソッドがあるかどうかは、まだ保留にして、探索しようと思います。
私が今言えることは、「戻りたくても戻れない悪人がいるんだから(戻る気がない悪人もいるでしょうが)、ある程度恵まれた環境にいる人間は、簡単に世界を恨まないほうがいいよ」ということです。
世界を恨まないように、我慢する(コストを許容する)ことをトレーニングして強化するといいと思います。会社で例えると、事業規模を適正な大きさまで拡げるということですね。