メディア識者の王冠

ツイッターで、塾講師の人が「教え子の子供たちが、ひろゆきさんを信仰していて懸念している」という内容をつぶやいていて、ほほぅ、よくわからないぞと思いました。

 

その人の見ている世界では、「ひろゆきさんが悪い人だから、その悪性が子供たちに感染している」という風に映っているようです。

 

子供たちがひろゆきさんの言ってることを聞いて、それを支持してる、だけなので、私は特にそれをどうこうしようとする必要はないと思います。

 

他のツイートを見ると、『ひろゆきさんは「芸人枠」ではなく、「識者枠」なので、悪い発言をしたことに対しては批判しなければいけない』という内容。

 

これもよくわからないのですが、「芸人枠のひろゆきさん」は許容できるけど、「識者枠のひろゆきさん」は許せない、というけっこう不思議なことが起こっています。

 

ひろゆきさんはどうあがいても「ひろゆきさん」なので、この塾講師の方は一言で言うと、「識者枠を汚されたくない」という動機なのかもしれません。

 

私は、そもそもメディアに出てくる識者が、まともなことを言ってくれると期待していないので、ひろゆきさんが何を言おうと、「あぁ、そういう考えの人なんだな」と思うだけです。

 

自分が代金払って得た情報が、もしでたらめだったら、「何だよー!」とプンプンしますが、ツイッターとか、民放テレビとか、YOUTUBEとか、ユーザーが1銭も払っていないサービスから、「とても質の高い情報」が得られることは稀です。

 

私は「ひろゆきさんは自分の理路を持ってるな、(それが厳密に正しいかどうかは私はあまり検証してないけど)ファイト!」と思っています。

 

成田さんも批判されていましたが、彼の発言は背景がよく読めないところがあって内容についてはジャッジしかねますが、自分なりの論理があるだろうと思われるので、ファイト!と思っています。

 

ある人が、自分の考え方を持っている、戦うための技術がある、というなら、それだけで喜ばしいことです。本人の努力次第で、上手くいく可能性が高いからです。

 

しかし、彼らは「識者の枠」を汚してしまったという評価をする人が少なくないようです。

 

この発想は、論理ではなく、欲の肯定ですね。

 

ビンゴ大会の一等賞がトイレのズッポンだと困る。もっと素敵な、みんなが憧れるキラキラの王冠でなければいけないという欲が見えます。

 

なぜそう言えるかというと、ひろゆきさんが万人にとってキラキラしていなければいけない必然性、必要性、がそもそもないからです。

 

ひろゆきさんが完璧超人である必然性も、必要性も最初からありません。誰も要請していないし、おそらく何らかの長所と何らかの短所を持った、一人の人間でしょう。

 

ひろゆきさんにその要請をすることが不当ならば、その立場「識者の枠(王冠)」の側に、その要請が通っているという解になります。簡単ですね。

 

よって、塾の子供たちがひろゆきさん信仰をしていたとして、その判断をしたのは子供たちです。この先、何らかのトラブルがあるとすれば、それは子供たち自身の問題であり、ひろゆきさんはその文脈に出てきません。

 

子供たちに教えるとすれば「有名な人が正確なことを言うとは限らないよ」ということですね。

 

大元がひろゆきさんでも、子供たちの頭に入ったのなら、それは「子供たちの考え」です。そういう前提で、教育(情報をどう扱うのか等)を施して行って欲しいと思います。

 

それとは別に、塾講師の人はひろゆきさんを批判したいのであれば、あえては止めませんが、それと子供たちは関係ありません。

 

細かいんですけど、こういう認知の情報処理でのミスは、間違うとハイプレッシャーの土俵では生き残れませんので、書いてみました。