篩い(ふるい)の人間観

篩い(ふるい)とは、お菓子作りの際に、小麦粉とかを細かくするための目が細かいザルみたいなものですね。

 

人間って篩いみたいなものだなぁと思います。

 

人間としての生命活動、アウトプットは、当たり前ですが人間ならではのものです。歌を歌ったり、食べ物を収穫したり、ツイッターにリプライしたり、美しい景色に感動したり。

 

これらを評価して、この人は素晴らしい人だ、とか、こいつは悪いやつだな、とか思ったりするのですが、その人の真価はアウトプットでは測れないと思います。

 

人間としての評価というのはアウトプットでできるんですが、人間以前の存在である「あなた」や「わたし」は簡単に評価できません。評価軸を持っていないからです。

 

人間になってみたら、よく物に当たる人になっちゃった。とか見ても、人間としては「我慢が苦手な暴力的な人」という残念なものです。しかし、その人の「魂」とでも言いましょうか、魂は、いったいどのようなものなのかわからないし、簡単に評価は下せません。

 

もし違う肉体を持った人間だったら、温厚で優しくて、愛情豊かな人物になっていても不思議ではありません。逆も然りで、今温厚な人の魂でも、脳みそに数ミリの傷が付いている肉体に宿れば、殺人者になっていても驚くようなことではありません。

 

でも、この世では、例えば犯罪を犯せば前科という「犯罪者のレッテル」が貼られて牢屋にぶち込まれ、精神異常をきたせば「精神病患者のレッテル」が貼られて隔離病棟にぶち込まれたりします。

 

他方で、善良な市民の多くは「没個性のレッテル」を貼られて、どうやって他人と差別化を図って自分の労働市場での価値を高めようか、とか悩んだりします。

 

これらの人の行動(アウトプット)に基づくレッテル貼りという過程を経て、この人は「~な人だ」という評価が下されます。

 

これって、数多の魂を「人間」という「篩い」にかけて、仕分けしているようなものだなぁと感じています。

 

例えば若い中高生は、「やばい」と「きもい」だけで会話が成立するような閉鎖的な社会で生きていますが、じゃあこの子供たちが、みんな「やばい、きもい、しかアウトプットしない同じ人」と評価するのは妥当なのでしょうか。

 

おそらく、全ての魂はそれぞれユニークだけど、「中高生」という篩いにかけられた結果、「シンプルで直感的なワードで感情表現を完結させる人」に仕分けられた人が多い、ということだと思います。

 

従って、その人のアウトプットだけを見て、評価するのはちょっと的外れだな、と私は思うのです。

 

本当の希望を言えば、魂を知りたいし、魂を評価する軸も欲しい、です。

 

私の魂は、人間という篩いにかけられた結果、うまく嚙み合わないで、エラー扱いされたようですが、それはそれで面白いなと思います。それを狙ったわけでもありますし。

 

どんな篩いにかけられようと、魂自体を良くしていきたいです。魂も不変ではなく、時間経過で変質していくようなので。

 

人間の篩い自体に注目しても、もしその存在理由が「仕分けをするため」であるならば、しょうもないと思います。お菓子作りの最中に、篩いという「器具」を舐めまわすように注視しても、しょうもない、と同じ意味です。

 

ただし、「仕分けするためだけにある」とは言い切れないので、人間自体を理解したり、愛したりすることに本気になっても、間違いとは限りません。

 

ただ、篩いである可能性があるから、それなりのリスクがあるよってことですね。