「なぜ世界は存在しないのか」感想文 その8

7章 エンドロール -テレビジョン

 

<要約>

実存主義的な悲嘆の気持ちが生じるのは、人生にたいして、ありもしないこと(不死や、永遠の幸福、すべての問いにたいする答え、など)を期待するからだ。

・重要な問題は、いかにしてわたしたちの人生(集合的・共同的な生活)の意味を失わずに、わたしたちの人生を喜劇として見ることができるか、ということだ。

・わたしたちが知覚しているとおりの在り方しかしないものは存在しない、無限に数多くの在り方でしか何ものも存在しない。

・映画は、根本的な意味で「存在しないものをみせるショウ」であり、その中で「何が実在で何が虚構かを決めている唯一の世界が存在する」という固定概念を超える、数多くの解釈可能性に取り組むものだ。

・大切なことは、まずは、わたしたちの存在論的状況を明らかにし、次に、すべてを包摂する基本構造なるものを断念すること、その代わりに、現に見られる数多くの構造をもっとよく、もっと先入観なく、もっと創造的に理解するべく共同で取り組むことだ。

 

<感想>

本書を読み終わりました、パチパチパチ。新実在論自体の内容は、そんなに理解が難しいことは言ってなくて、後半は、それに基づいて自然科学、宗教、芸術、テレビショウの構造を説明しているので、すんなり頭に入ってきました。

 

ガブリエルさんは人生のことを「人による集合的・共同的な生活」として、それを悲嘆せずに、喜劇として見ることができた方がいい、と言っています。

 

これに対して、まぁそうだな~模範的だな、と思うので特に反論はないのですが、私は家族などの他者との関わりは付属物で、メインは独りぼっちで生きてましたね。孤死もやむなし、と思っていました。

 

自分という孤独な観測を行っている以上、自分で始まり、自分で完結させるのが、好ましい流儀だと思ったからです。

 

もちろん、社会との繋がりはあるのですが、その部分を除いた純粋な個として、どう生きるか、を追求してきましたし、今もそれは思っています。

 

個の可能性が、どこまであるのかを突き詰めないと、その集合が何をやるか、とか判断できませんからね。

 

もし、人間が他者との繋がりの中でしか生きられないと仮定するならば、自我が複数ある意味がなくなるので、それは「この世に自我いっぱいシステム」を有効に利用できていない形だと思います。

 

大きな体の象さんに、ヤマタノオロチのような頭がいっぱい付いてたら、「なにこいつ?無駄が多い生き物だな」となるでしょう。大きな体の象さんに、頭がひとつ、なら納得できます。

 

そして、体と頭が一対の象さんは、個・・・孤独です。基本的に、人は孤独と考えて、スキルを身に付け、自分の物語をコントロールできてから、その次段階に、他者と関わったりすればいいんじゃないでしょうか。

 

これを成立させるには、やっぱり教育と、自分の努力が必要なので、実際的にはヤマタノオロチがふらふらする状態なんでしょう。

 

今のままでいい、という人もいると思うので、軽率に「変えよう」とは言えないんですよね。私がそうだったらいいな、というだけですが、将来的には、人は皆、孤独になると予想しています。

 

もしくは、ヤマタノオロチ形態に新しい価値を見出すか、どっちかですね。とりあえず、自分の外は変えるのは色々難しいです。自分を変えていくのが一番、無難で、確実で、手に余ることがないことだと思います。

 

ガブリエルさんは、万人にとって利益が出やすい考え方を表現されているので、読み終えて、さすがプロの哲学者だなぁと思いました。ためになる本をありがとうございます!