一方的相互理解 その② ~そして一歩進む~

前回の日記「一方的相互理解(その①)」で、勘違い知識人の内面の洞察ができました。

 

ここで、「よかった、納得できた」と満足して、終わるのは「ぬるい」です。

 

なんのために洞察したのか?適当にでっち上げた推測、架空のストーリーに浸って自己満足の幸せを享受するため?

 

否、常に一歩ずつ前進するためです。これを命がけでやっているのが私です。

 

それを実際に実演しようと思って「その②」を書こうと思います。このプロセスを良く見ていて欲しいです。

 

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勘違い知識人の方は、つまるところ、「愚かな行為を繰り返して、人間(仲間)が苦しみ続けることは」→「許容できない」という事実があるということです。

 

もしも、そうじゃなく、仲間が幸せであり続けるならば、例え愚かでも、笑って許すでしょう。

 

しかし、それは現実とは違う。

 

実際にあるのは足の引っ張り合い、奪い合い、殺し合いです。

 

「この風景を見続けることは、耐えがたい」

 

しかし、

 

「ジブンニハ ドウスルコトモデキナイ」

 

とても勝てそうにない。だからこう言おう、

 

「お前らがバカだから悪いんだ」

 

「ボクニ セキニンハ ナイ・・・ハズダッ!」

 

この心境風景において、肝となる点は、「現実の有り様を許容できるか否か」になります。

 

この点において、同じ人間同士でも、個人差・ギャップがあります。まずそれが課題の種として立ちはだかっています。

 

「気に入らない奴がいた」「カッとなって拳でボコボコにした」

 

この人は、幼少期に親から暴力などの虐待を受けて育っていた。

 

「可哀想だけど、やっぱり育ちが悪い奴はどうしようもねぇな」

 

違う

 

彼の現実は、被暴力であふれていた。「それが現実だった」

 

嫌だった。当たり前の話だ。でも「ソレガゲンジツナンダカラ」

 

どうしようもないじゃないか。受け入れる以外の選択肢はなかった。生き続けるならば。

 

つまり、ポイントは「暴力まみれのひどい現実」を

 

「受け入れている人間」と「受け入れられない人間」両方存在するということです。

 

どっちが正しいとかではないです。事実としてそうなっている。ギャップが存在している。

 

イスラエルパレスチナ戦争を許容できない人もいるでしょう。

 

ちなみに私は、ユダヤ勢力とイスラム過激派勢力の殺し合いについては許容しています。理由は詳細は割愛しますが、簡単に言うと「人力ではその構造から抜け出せないだろう」という見積もりをしているからです。

 

ここで、「一歩ずつ進む」遅いが、確かにしっかりと歩を進める方法論を提案します。

 

多くの人の脳内プロセスにおいては、思考の「すっとばし」が見られます。

 

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「テレビなどメディアを通して大量虐殺を知る」

→嫌だ

→弱いパレスチナに寄り添って助けたい

イスラエルにその犯罪的行為の責任を負わせよう

→反ユダヤデモ活動をしよう

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私が提案するのは、このプロセスを、シュシュッとすっとばさずに、「みんなできちんと一歩一歩、丁寧に進めましょう」ということです。

 

以下が、丁寧なプロセスの運び方です。

 

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「テレビなどメディアを通して大量虐殺を知る」

→私はその現実は許容できない!

あるいは

→私はその現実は(嫌だが)許容するしかないと思っている

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ここで立ち止まります。全員、立ち止まってください。そして、「誰が許容できて、誰が許容できていないのか」を確認しましょう。

 

アクションとしては、ITを使っての、全員による意思表示のようなものを実施します。

 

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許容できる:30%

許容できない:70%

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このような結果が出たとします。ここでまた立ち止まります。

 

ここで皆ジャッジしてください。

 

「全体の7割の人間が、許容できないことが、現実に起こっている」

 

これをどう捉えるでしょうか。

 

私は、先ほど言ったように、あの戦争が起こること自体は許容しています(南部へ避難したガザ市民の殺害は許容しませんが)

 

だから、自分のことだけ考えるならば、「まぁ、どうしようもないし、いいんじゃね?」となるところですが、

 

ここで先ほどの全体意思表示によって、

 

「全体の7割の人間が、許容できないことが、現実に起こっている」

 

ことが判明しています。これを、私は「放置すべきではない」と判断します。

 

おそらくですが、私以外の「戦争を許容する側」の人間であっても、例えば、戦争を学術研究の対象としている専門家であっても、「放置すべきではない」と思っている人は大勢いると思います。

 

「人類はバカだから、しょうがない」

 

それは本心か?

 

「放置すべきではない、だから(間接的な効果を狙って)自分の研究をがんばっている」

 

でしょう。そういう人は確かにいると思います。

 

「全員の7割が許容できない」ということがわかった。その次のステップとして

 

じゃあどうするか。ここで分岐が発生します。

 

選択肢①:現実を塗り替える

選択肢②:許容できない人ができるだけ許容できるようにする

 

どっちがいいでしょうかね?簡単なことです。「両方やりましょう」

 

【選択肢①:現実を塗り替えるルート】

 

現実を塗り替える?そんなこと自分に簡単にできたら誰も困らねえよ。

 

「だから、イスラエルにその責任おっかぶせようぜ」

 

それも、ひとつの手段です。

 

ただ、効果がないのであれば、基本的にその手段に頼るべきではありません。なぜなら、効かないから。当たり前の話ですね。

 

「これ以外の手段」つまり、「有効な手段」でのアプローチを探しましょう。

 

例えば、私がやったような、イスラエルの内面の洞察をして、それを日記に公開するということです。

 

私の日記をイスラエル政権が見ているかどうか不明ですが、例えばこれをもっと同時多発的に、多くの人がやって、イスラエルの目に入ったらどうでしょうか。

 

その洞察の内容が正確かどうか、ということはさほど重要ではありません。私の書いた洞察は、おそらく現実と乖離しているかもしれませんが、その可能性は当然計算に入れた上で、日記に書いています。

 

人間の心理というものは、複合的で、単純なものではありません。

 

なので、私の書いた内容も、正確性としての精度は低いだろうけど、「完全な大外れ」である可能性はかなり低いのです。

 

イスラエル人の中にある、小さな要素、そこに訴えかけるストーリーを表現することで、「そのルートに行ってみようかな」という選択肢をイスラエル政権側に与える作用があるのです。

 

その選択肢を選ぶことは期待していません。それ以前に、「選択肢として意識させる」これが最も効果的であると見込んで、あの日記を書きました。

 

そして、もっとも重要なのは、「イスラエルへの信用」です。「お前なら、きっとこれ(平和への道)を選ぶだろ。そうだろう?」

 

と信用している気持ちでパソコンのキーを叩くのです。かっこいい言葉で言うと、「魂の接続と共鳴」を願っているのです。

 

だから、日記の内容が、多少ヘボでも、偏狭な見方であっても、それは問題になる土俵ではないのです。

 

「本気で、イスラエル人とわかり合う気があるのか?」常にその問いに直面しながら、

 

力強く「YES!」という心で書くのです。そうすれば、おそらく「現実の何かが動き出します」。

 

このように、「イスラエルに責任おっかぶせ」という手段だけでなく、自分らしく、あらゆる手段を取ることは可能です。

 

そういう力は、現実を塗り替えるきっかけになります。

 

【選択肢②:許容できない人ができるだけ許容できるようにする】

 

こちらは、難しいというか、「苦しくて耐えがたい」けど、無難で確実な道です。

 

このための手段としては「許す(愛する)」あるいは「視野を広げる」です。

 

他にもあるかもしれませんが、それは人それぞれ何をやってもいいでしょう。

 

結局、戦争というのは

 

「よくわからん相手に不信を抱き、『害悪』や『敵』のレッテルを貼って、力づくで、消去する」ということです。

 

この構造を、崩せばいいだけです。

 

つまり

 

「よくわからん相手も、とりあえず信じて、安易なレッテル貼りをしないで、武器を床に置く」

 

ということで、戦争は回避されます。

 

一般市民の方であれば、武器はデフォルトで持っていませんね。これはOKです。

 

あとは

 

「よくわからん相手でも、不信とレッテル貼りをしない」ということが重要です。

 

このために有効な手段が

 

「許す(愛する)」もしくは「視野を広げる」です。

 

「よくわからん相手に加害された」

 

それもとりあえず許しましょう。そして、「どういう背景で、その相手はそれをしたのか」それを知るようにしましょう。

 

これが「良いことだから」そうしましょう、と言っているのではありません。

 

これが「戦争(許容できない現実)を許容するための有効な手段だから」やりましょう、と言っているのです。

 

他に有効な手段があるなら、それでもいいでしょう。これはあくまで模範解答です。

 

一歩一歩立ち止まってみて、深呼吸でもして冷静になり、あくまで「有効な手段」を確信をもって取ってみてください。

 

そうしてやっていると、すでに起こっている許容できなかった戦争が、「許せる」あるいは、「必然であるかのように」見えてきます。

 

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このように、一歩一歩やってみると、「思考をすっとばす」ことがいかに危険な暴走であるか、実感できると思います。

 

危険な暴走というよりも、「危険に対して無力な走行」と言った方が正確かもしれません。

 

この日記がどのくらい有効かはわかりませんが、これを見ているあなたを信じて、書いています。

 

YOASOBIさんの「勇者」を聴きながら書きました。勇気をもらえました。ありがとうございます。