イスラエル人の論理

イスラエル人の、というと主語が大きいですが、意志決定者の頭の中のロジックについて洞察しました。

 

■前提(普通の暴力の概念)

普通、人が暴力を振るうとき、悪事を働くときというのは、前提として「当人が著しく困っている」ケースが多いです。

 

人物像としてのイメージとしては、ネガティブな嵐の中に、小さな弱者が取り込まれてしまっているイメージ。

 

大きすぎる負のエネルギーにさらされた弱者は、キャパシティオーバーにより我慢のラインを越えて、自分の内部の借金を「外側(他者)に転移させる」というモードに切り替わります。

 

当人が元々悪い人だから、というケースもありますが、「特に悪事で快感を覚えないノーマルな人」の場合であっても、このモードに切り替わると、端から見た場合、暴力的な人間になりえます。

 

私は我慢が得意なので、「やつあたり」による暴力をあまりしませんが、キャパを越えたなら暴力を振るうことは十分にあり得ると思います。

 

先天的・後天的な意味で、「大きな負のエネルギーへの対応・しのぎ」の技量には個体差があり、人によっては行動が変わってくるというだけです。

 

「金持ちケンカせず」ということわざがありますが、例えばロシアが経済的・精神的にとても富んでいた場合、ウクライナ戦争は起こさなかったでしょう。

 

余裕がありハッピーならば、戦争をする「必要がない」からです。

 

以上が、普通の暴力の発生メカニズムだと私は思っています。

 

イスラエル人の論理

一方、イスラエル人の場合は、「普通に該当しない、ギャップがある」という意味で例外的です。

 

彼らは、ある特異な前提を認識しています。

 

それは「(ハマスのような)悪人たちが、自分たち(ユダヤ人)を攻撃することは、理にかなっている」という認識です。

 

言い換えると、イスラエル人は「攻撃される心当たりがある」のです。

 

普通の人の認識では、暴力とは「嫌々、仕方なく、そうしないと生きていけないから」やるものです。

 

他方、イスラエル人にとっては、暴力は「受けるのは嫌だけど、悪が我々を攻撃するのはとても合理的なことである」という認識を持っているということです。

 

その合理性の基礎となる「理」とは、ユダヤ教の「ユダヤ人だけが救われ、それ以外はすべて犠牲となる」というものです。

 

「NOTユダヤ人は己の承諾もなく、強制的に犠牲にされる」ので、NOTユダヤ人が怒って自分たちユダヤ人を攻撃することは、嫌だけど、筋が通っているという認識です。

 

イスラエル人は、暴力を受けるのはもちろん嫌だけど、自分たちはそうされるだけの業を背負っている、それでも、我々は最終的には救われる、という信仰がベースにあるのだと思います。

 

もしその信仰がないとすれば、イスラエル人の自意識は「自分はただの悪人、ハマスと同じ穴のムジナで救われない」という自覚を持つことなってしまい、それは許容できないのでしょう。

 

彼らイスラエル人が望むものとは、「自分たちがどんな大きな業を背負っても、最終的に救われるような世界」ということです。

 

■普通の人とイスラエル人のギャップを埋めるためには

前述したとおり、イスラエル人は「悪が自分たちを攻撃すること」と「自分たちが大きな業を背負うこと」と「自分たちが救われること」を肯定しています。

 

この論理を持つ人と、普通の人とのギャップを埋めるにはどうすればいいでしょうか。

 

一番の急所は、やはり暴力に対する認識の違いですね。

 

イスラエル人にとっては、暴力行使は「意図的で」被暴力は「理解できるもの」

・普通の人にとっては、暴力行使は「やむをえず」被暴力は「なくすべきこと」

 

という違いがあります。

 

イスラエル人は次のようなプロセスを経ています。

 

ユダヤ教の信仰を得て

②被暴力(迫害)を体験し

③その被暴力に合理性を見いだし(納得して)

④信仰を支えにして、意図的に暴力を行使する業を背負い

⑤さらにユダヤ教への信仰を強めて

↓②~④を繰り返す

 

というスパイラルで、ガチガチにはまっている状態が今です。

 

強引な手でいくと、ユダヤ教の信仰をぶっこわすことです。ユダヤ教は否定しなくてもなくさなくてもいいのですが、「信仰」を止めさせる。そのアプローチがありうる。

 

一番弱い急所を突くとすれば、③の「他者(ハマス)からの暴力に納得する」を崩すことです。

 

一般的な「やむを得ない暴力行使」のメカニズムをインプットしてもらって、ハマスへの理解を変換すること。ハマスはもはや「やむを得ない」とは思ってないかもしれませんが、歴史を遡れば、好んでそうなったわけではないこともわかると思います。

 

一般的には、暴力は誰でも(善人でも悪人でも)使いうるものだという認識も持ってもらうと、③が崩れるので効果的だと思います。

 

問題は、イスラエル人は「暴力を行使しなくてもいいかもしれないのに」使ってしまった業が膨らんでいることです。

 

もし暴力が「やむをえず」ならば、自分たちは意図的に暴力行為を働いた愚か者に転落するじゃないか、という懸念を持つと思います。

 

その懸念に対して、「過去のことはそれで良い、愚か者ではありません。ただ、今からは意図的にやらなくてもいい暴力は行使しなくても大丈夫です」とメッセージを伝えることですね。

 

そんな感じで、やんわり①ユダヤ教への信仰というか、依存を軽減させていく、みたいな道筋がいいでしょうね。

 

(まとめ)

大体方針は決まりましたが、イスラエル人がさらなる深みにハマる前に、なる早で認識の転換を起こした方がいいかもしれませんね。

 

ただ、誰がそれをやるのかが問題ですが、ユダヤ人は頭がいいので、自力でやるのが一番早くて確実かもしれません。