A diary 10/25

もし私がコントロールしたいと思う「対象」があり、それを実現する「技術」と「実行力」があるとした場合。

 

避けなくてはいけないのは、対象がどこどこまでも一方向に突き進み、数学の無限のような加速をして、手に負えなくなり、システム運営に実害が伴うケースです。

 

このケースを防ぐ方法論として以下の3案くらいが思い浮かびます。

 

①対象を閉じ込める空間の奥行きをめっちゃ深くする

例えば宇宙空間のような広大なフィールドに、ちっぽけな地球の上に、さらに小さい身体を持つ人間を住まわせれば、その人間は「あぁ、この庭(地球)から出るのは無謀だな」と思わせて諦めることが期待できます。

 

又、もしも高速で宇宙の果てまで飛んでいこうとしても、時間がかかるので、その猶予期間中に落ち着いた対応が可能になります。

 

②矛盾構造に嵌める

同一性のある対象の内部を、あるベクトルと逆方向のベクトルが共存しているような見方をする、つまり矛盾を作れば、引っ張り合いをして、全プレイヤーが拮抗を志向するようになります。

 

双方のベクトルの大きさが大きくなればなるほど、簡単に言うとしんどくなるからです。

 

③ループ構造を採用する

原子の周りを回る電子のように、高速でぐるぐる回せば、高出力のスピードを持つ対象も、客観的に見た場合に動きを止めることができます。

 

ループ構造に閉じ込めておいて、あえて「ガンガンいこうぜ」の作戦を誘発するようなインセンティブを導入すれば、安定したループ運動を管理することができます。

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このように、仮に「宇宙の真理のように解釈できるルール」であっても、それはただの管理・制御テクニックのひとつにすぎない場合があります。

 

「ひとつにすぎない」と言ったのは、それは「手段」であり「誰かにとって意味がある」というだけで、なんらかの制限によって「(たまたま)そうなっているだけ」かもしれないという意味です。

 

しかし、そのルールが強固であり、又、高い再現性が認められる場合は「じゃあそれに沿って、依存して、基準にして、あらゆることを判断しよう」という発想の人はとても多いです。

 

一方、私は、例えば明日、海の水がすべて逆の雨のように天に昇っていったら、「うおっ」とは思いますが、原則的には「そういうこともあるんだね」と解釈します。

 

「海が、いつもの海である」という保証はどこにも見当たらないからです。

 

同様に、対象を管理するための、方法論としての確固たるルールがもしあったとしても、それがそのようである根拠としては、私目線では「わからない、見えない」なので無いに等しいです。

 

その根拠をつきとめたとしても、コントロールする側が「たまたま、そうしたかったから」というだけの薄い理由(脆弱な基盤)しかない場合もありえます。

 

川の水が高いところから低いところに流れることがお決まりであったとしても、「じゃあそれに流されるのがいいな」という発想はありえますが、鮭のように遡上してもいいわけです。

 

要は、川に流される木の葉であっても、鮭のように逆流しても、管理者は「どっちでもいいよ、プレイヤーがどうしたって、こっちは制御できればそれでいいんだから」という状況がだいたいのオチです。

 

強く見えるルールにできるだけ逆らわないように、あるいは気合い入れて逆らうとか、そういう簡単なゲームにしてしまうと、ラクなんですよね。

 

ラクだからこそ、多くの人がそうしているわけですが、同時に大きなリスクもあるということを知っておいた方が良いと思います。

 

その強いルールは、根拠が「私たちには正確に見えない」し、「見えたとしても意味が薄い」場合があるからです。

 

根拠が「無く」「弱い」、ルールなんです。これは、急に無くなったり、全く違う別物のルールと置換されても全く不思議なことではありません。

 

日本とは「赤信号みんなで渡れば怖くない」の文化がありますから、このリスクを見たい人は少ないかも知れませんが、この話はイスラエル人にも適用できる、あるいはすべての人にも適用できるものなので、日記に書いてみました。

 

私は、ルールには「ほどほど(適度)に」依存して、自分で立つこともやった方が安心なのでそうしています。

 

依存と自立のバランス配合を、考慮した方が現実に対応しやすいということです。