一方的相互理解

最近、Youtubeで興味深いというか、意味不明で興味深い、学者の方の動画を見ていたんですが、あることがわかりました。

 

その方が、というよりも、私はかねてから知識人、学者、研究者の方達がおしなべて、「愚かな大衆を嫌っている」性質を持っているのが不思議でしょうがなかったのですが、推測によるある解を得ました。

 

私は、別に愚かな人がいたとしても「お前、愚かだなー!」とわざわざ指摘する必要はないと思っています。

 

だって、世の中には、足の速い人もいれば、遅い人もいる。

 

顔がかっこいい人がいれば、ぶさいくな人もいる。

 

それは「当たり前のような」ことであって、それ自体を問題視する必要はないからです。

 

私は学生時代は、けっこう足が速くて、部活のトレーニングのランのときも、疾風のように駆けていました。

 

しかし、41歳になり、以前のように思い通りに運動することができなくなり、走ってもペタペタ小走りしかできません。

 

その愚鈍な様を誰かが見て、「お前、とっろいな~!」と言ったとしても、

 

私は「う、うん。そうだね(それがどうかしたんだろうか)」と思うだけです。

 

同じ事も知の場にも言えて、ツイッターとかでも、あまり思慮深くないツイートをしている人はたくさんいます。

 

いますが、別に、それは普通だから、「こいつらは愚かで間違っている」とわざわざ憤ったり、軽蔑したりする必要がないのです。

 

まぁ、例えば「悪意のあるデマを流す」とか「誹謗中傷をする」とか「不毛な争いをする」とかの実害が出ているのであれば、確かに社会的に問題はあるので、それを是正する動きはあってもいいでしょう。

 

しかし「愚かである」こと自体、人間が生きる上では、別に問題でも罪でもありません。

 

逆に「オレは愚かじゃないよ」と自信満々に言える人というのは、なかなか珍しいのではないでしょうか。

 

私は「自分が愚かではない」と言い切る意思はありません。この認識は、「及第点の水準」を自分でどこに設定するか、のさじ加減ひとつだからです。

 

例えば、「スーパーで買い物がスムーズにできる程度の水準」を及第点だと設定するのであれば、私はそこそこ自信はありますが、もし老化で衰えてきたら、それすらできなくなる可能性はあると思います。

 

なので、買い物での金額計算についても、「私は愚かではない」と自信満々にはなれません。

 

私の客観的なジャッジでいうと「人間の身体的スペックの制限アリの状態で」「自分は愚かではないと自信満々になれる」というのは、ほぼあらかた「勘違い」だろうな、という印象を持っています。

 

ここで、知識人、学者、研究者の方を眺めてみると、「私は賢いということを知っている」「大衆は、皆、愚かで問題がある」という価値観を持っている人が多いようです。

 

それは、そういうインテリ部門の職業についているから、「そういうことにしておかないと」「集客できない」「商売が成り立たない」から、という側面もあると思います。

 

サラブレッドの競走馬が、JRAと競馬場を必要としているように。

 

まぁそういう事情もあるので、別に目くじらを立てることもないのですが、どうやら、その価値観を「心の底から抱いている」「本心」であるように見えるので、それが不思議だなぁと思うわけです。

 

で、私は洞察していたのですが、そういった「愚か者ヘイト」の価値観を持っている人も、必ずしも悪い人ではない、ということをYoutube動画で見て感じました。もちろん悪い人も一部居るでしょうけど。

 

わかったのは、「愚か者ヘイト」の人は、その「愚か者のことをよく知っている」ということです。

 

つまり、「同族、同属の仲間」なんです。

 

作用の点から言い換えると、「賢い者(自称)」は「愚か者」と社会的依存関係を持っている。

 

私からすると、「依存しといて、ヘイトするとはずいぶん情けない大人だな」と感じるのですが、「仲間だからこそ、憎む」ということも心情的にはありえるのでしょう。

 

「賢い者(自称)」は、「愚かである故に、痛い目に遭う、苦しむ」ことについてとてもよく知っている。あるいは「嫌な経験を体験済み(あるいは体験中)」なのかもしれません。

 

そして、「知の世界」「真理との邂逅」という「避難空間、避難経路がある」という認識を持っている。

 

当然のように、賢い者はその居心地の良い避難所で難を逃れるわけですが、一方で愚かな大勢の人達は、まったくその「事の本質」が見えずに、あいかわらず同じ過ちを繰り返して苦しみ、害をまき散らしている。「こいつらはバカだ」と。

 

「私は正しいことを知っている」「だからこいつらの上に立って、バカなやつらを少しでも矯正するしかない」という発想。

 

なるほど~一部の学者が偉そうにしてる理由がわかりましたね。

 

正確には「自分は正しくて、偉いという設定が好きだなぁ」でしょうけど、とりあえず、その心理的束縛があるのだろうと、理解できて私はよかったです。

 

みんな、基本的に仲間であり、それぞれ辛いということですね。

 

私は愚か者にヘイト感情はなく、別にそのままでもいいと思っていますが、実は私は、みんなと仲間だとは思っていません。

 

今は、まぁ、仲間と同じ方向を向いて、信じることも大事だなぁということも干渉により学び、人格の性質が変わってきていますが。

 

若いときは、「社会を見て、こいつらとは無関係に、自律的に駆動するぞ」という考えでした。

 

ショッキングな言い方をすれば、見限り、見捨てたんですね。こいつらは及第点以下で組むに値しないと。

 

私はけっこうひどい奴かもしれませんね。

 

しかし世の中面白いもので、「他人を殺したいほど憎んだ人ほど」「他人を愛することができる」ように、

 

「意識して他人を救おうと思う人が、実際に救えるとは限らない」という皮肉な現象がよく見られます。

 

観衆をゴミのように、あるいは家畜のように見なしているタレントが、とても輝き人気を持つことができたり。これは別に実例をイメージしているわけではなく、そういう現象がありうるという意味です。

 

なので、「仲間を見捨てて勝手にどっかいく奴でも」「実際的には、皮肉にもみんなの役に立つ」こともありえるかもしれません。必ずしもそうなるとは言えませんが、信じる心があればそうなることは現象としてはあり得ます。

 

背を向け合った人同士が、お互いを信じる、これは最近個人的に大事だなぁと思っています。

 

なので知識人、学者、研究者の方々も、「愚か者」にヘイトを飛ばすのもまぁ許容できますが、相手を信じるということも選択肢に昇らせてみたら、見える世界が変わるかも知れませんね。

 

みんながんばって生きましょう。