なんでも書いてると、見る人が見たらゴミみたいな日記にもなりうるんですが、私は、そのゴミが生まれることにも、意味があったら嬉しいなぁと思っている派です。
ゴミの反対、有益な情報というものが、私の目には砂漠の蜃気楼のように見えているという側面もあります。
なので、ちょっと気を引き締めますが、基本的に当日記は娯楽のためであり、役には立たないという前提で、書こうと思います。
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今回のテーマは「価値観の重層性」について。
最近謎の盛り上がりを見せている、「自民党女性局員のフランス研修問題」について、ひとつ思ったことを書きます。
批判のひとつに、「国民生活は今とても苦しく、この先ももっと苦しくなるかもしれない状況で、政治家がのん気に旅行を楽しんでいるような写真を公表した。国民の嫉妬心を逆なでするような無神経さに怒りを覚える」というものがあると思います。
私はこのような嫉妬とか、憎しみとかは、通常「敵」に対して行うようなものだと認識しています。敵とは、この場合、「自民党の当該女性議員たち」で、「あいつらは私とは違う」という前提に立った上での敵視ですね。
でも、実際は、批判を言った国民は、女性議員たちと、根本的に同属感を持っているんじゃないかな、と想像します。
これは何を言っているのかというと、女性議員や批判する人たちの認識について述べているのではなくて、「私の認識」について言っています。
私は、はっきり言って、女性議員たちと、自分が同属だとは思っていません。実際には同属かもしれませんが、なんか距離的に遠い人だし、よくわからないからです。
「女性議員たちは、私とは別物」という意識がある故に、基本的に「犯罪したわけじゃなくて、旅行を税金で楽しんだだけ」なら、別にいいや、好きにすれば、と思っています。だからこそ、嫉妬もしない。簡単に言うと「どうでもいい」。
しかし、批判している人たちは、女性議員たちをある種の「仲間」だと認識しているのではないでしょうか。
「仲間」だからこそ、その前提があるからこそ、女性議員たちの「裏切り行為」に対して、怒りを覚える。
又、「仲間」だからこそ、競争で打ち負かす対象、敵になり得る。
■私の価値観では、
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上層「無関心という名の許容」
最下層「相手は仲間じゃなく他人」
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このような価値観の重なりです。
■一方、女性議員を批判している人の価値観では、
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上層「裏切りへの憎しみ」
最下層「相手は仲間であり運命共同体」
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このような価値観の重なりなんじゃないか、と「想像」します。
■そして、人間的に包容力がある人の場合は、
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上層「裏切りを愛情を持って許容する」
最下層「相手は仲間であり運命共同体」
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このような感じではないでしょうか。こういう人は、かなり恵まれてる境遇の人ですね。
この3パターンを比較すると、
・アクションが同じ「許容」であっても、人物像は異なるケースがある
・アクションが「憎しみ」と「許容」で異なっていても、人物像の根っこは同じのケースがある
なので
「その人のアクションだけ見ていても、その人物像は特定できない」し、
「複数の人のアクションが同じであっても、同類だとは限らない」のです。
さらに、批判する人の価値観を見て、ちょっとここ改善した方がいいかな、と思うところがあります。(余計なお世話かもしれませんが)
■一方、女性議員を批判している人の価値観では、
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上層「裏切りへの憎しみ」
最下層「相手は仲間であり運命共同体」
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これですね。重層的な価値観のうち、最下層の「相手は仲間であり運命共同体」とあります。
これって、そもそも「そういう想いを持っていれば、安心で楽だから」やっているはずなんですよね。メリットがあるから。逆に「孤独」は嫌で辛いから。
ですが、ひとつ上層の価値観「裏切りへの憎しみ」というものは、「仲間だと思っているからこそ、憎しみが生まれ、増幅される」という側面があります。
これは、当初の趣旨「安心で楽がしたい」と、背反してます。
「安心と楽を追い求めた結果、逆に憎しみで苦しんでいる」みたいな現象。
この構造を、良しとしているのならば、別にいいんですけど、もし期せずしてこのがんじがらめに苦しんでしまっているのならば、対処できる部分がありますね。
その対処とは、「一旦憎しみは置いといて、初心の仲間意識を再確認する」が適当だと思います。
「そうだ、仲間なんだから、相手が楽しんでるなら、いいじゃないか」
そういう寛容さ、一般的に言う「愛」を持つと、お互いに摩擦が少なくて済むんじゃ無いでしょうか。
「この摩擦も良いんだ!」という価値観もあるので、一概には言えませんが。
あと前の日記で言った、「競争」も同じかもしれません。
■競争を好む人の価値観
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上層「競争に勝って相手を打ち負かしたい」
最下層「相手は仲間であり運命共同体」
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競争をして、他者の屍の山に立つ勝者も、実は、仲間意識を持った上での、一種の「あがき」、仲間意識だけじゃ満たされない心の隙間を埋める儀式なのかもしれませんね。
今回のテーマは、けっこう人間目線では、機能的なものだと思います。