娯楽性日記 8/4その②

今回は、ちょっとブレイクタイムで、三橋貴明さんのメールマガジンより。

 

「民主制と多数決」というタイトルのメールマガジンでした。

 

趣旨は、

「デモクラシー」のことを「民主主義」、と解釈するのは誤解で、正しくは「民主制」である。民主制におけるルールとは、多数決というフェアなものである。多数決で決まったことが「正統」であって、それが正当であるかは問われない。自分の意見を政治に反映させようとするならば、とにかく多数決で勝てるだけの勢力を形成する必要があり、私(三橋さん)はそれをしている。民主制とは、単なる制度の一形態である。

 

とのことです。

 

段々、この方(京大の教授さんだった気がする)の思考というか嗜好がわかってきたのですが、公理系がないと、嫌だって感じのスタイルですね。

 

民主制とは、多数決である。多数決が民主制である。これは良いも悪いもない、「そういうことになっている」。その前提で、民主制について論じていく、という作法。

 

このメルマガは、「三橋さんが民主制について論じたところ、それを見た人たちが民主制のことを民主主義だと誤解して、批判してきたので・・・」という経緯で、アンサーを書いたもののようです。

 

なので、私はそもそも三橋さんが民主制についてどんなことを論じたのかを知らないのですが、その論のベースには「民主制は多数決である。とにかくそうなっている」の公理が存在しているようです。

 

数学でも何でも論においては、この公理がないと、すべてが瓦解するので、足場を確かめるように「民主制=多数決」と言うのは合理的な行動です。

 

しかし、私たちが生きている環境においては、「公理に該当するものが、見当たらない」んですよね。「人間は、地面の上に生きている」さえも、公理ではありません。宇宙空間とか海中にいったらふわ~って身体が浮きますし。

 

このことは、ちょっと論理をかじったことがある人なら、みんな知ってることだと思うんですよね。もちろん三橋さんも知っているでしょう。

 

世の中にはものすごい計算能力がある、勉強ができる人がいても、社会的課題の解決については、無力であるみたいな現象も、原因は、現実世界に公理が見いだせないということにあります。

 

だからこそ、哲学者なんかは、ひたすら常識という「偽物の公理」を疑いまくって、その果てに何があるのかを追究したりしています。

 

まぁ、疑いまくっても、公理にたどり着ける保証なんてないですけどね。ただ、公理でないものを正しいと信じて、その上に砂上の楼閣を建設するような凡ミスを避けることができるのは確かです。

 

そういう環境が、現実世界ですから、私から見ると、三橋さんのように

 

あっさり、概念上のルールを「そうなってるからそうなんだ」として、公理にして、それの上に論を重ねるようなことをしているのを見ると、

 

ずいぶん、「簡単に、ストレスフリーにやっちゃうんだな」という感想を持ちます。

 

お手軽な、「ファスト論理的整合性」みたいなハンバーガーを提供している。(そして、それを三橋さん自ら食しているかもしれない)

 

確かに、簡単に、美味しかったら、それはそれで有意義かもしれませんね。

 

「楽しいな~」って消費するだけならいいんですけど、その砂上の楼閣に、他人の生活の保障とかが乗っかってくると、瓦解したときにダメージあるけど、私はそっちを心配するからしないです。

 

総じて、不安なく楽しいなら、三橋さんみたいなスタイルも、アリなのかもしれませんね。