ウクライナへ折り鶴送ること

ウクライナ千羽鶴を送った人がいて、それに対してひろゆきさんやDAIGOさんが批判する、というニュースを見ました。

 

「折り鶴は保管に困るので、現金を送る方がウクライナに喜ばれる」

 

「折り鶴を折って送ることによって、ウクライナへ思いを馳せるきっかけになる」

 

というのが両者の対立した言い分です。この問題自体は、些細な事ですが、この現象はけっこう興味深いなぁと思いました。

 

私自身の体験では、ある人から果物(もも)のおすそ分けをします、と言われ、それをやんわり断ったことがあります。

 

断ったところ、「いや、受け取ってください」と強くゆわれたため、そこで私は違和感を覚えて、はっきりと明確な言葉でお断りしたんですね。「いりません」という言葉を使ったと思います。

 

そうすると、相手の人はまだ喰い下がり「受け取ってください」としつこく強く言っていて、私は一抹の恐怖を覚えつつ、結局、断りきって受け取らなかったと記憶しています。

 

こういう経験から、私は「世の中には相手の都合を無視して、無理やり贈り物をしようとする人がいるんだなぁ」と学びました。

 

贈り物は、「相手に喜んでもらいたい」というのが、建前だと思います。少なくとも私はそう思っています。本当は、自分が利を得るために贈り物をする場合であっても、大人なら、建前は守るのが常識だろうとも思っていました。

 

しかしその人は、いとも簡単にその建前をぶっこわし、「私の善い気持ちを守るためにあなたは贈り物を受け取るべきだ」という独善を体現していたんですね。

 

最初に言ったウクライナ問題でも、おそらく似たような現象だと思うのですが、ここから何がわかると言うと、

 

「客観視と投資判断の要素を入れないで意思決定している人は存在する」というものです。

 

ひろゆきさんやDAIGOさんは、当然のように場の客観視と投資判断を、意思決定の材料に含ませていると思います。なぜ当然やるのかというと、それをやらないとまともな判断なんてできない、と思っているからですね。

 

一方、折り鶴を折って送る人は、それをしないで、自分の気持ちファーストで動いている。今の気持ちは、未来・過去ではなく「常に現在」なので、あまり客観視する必要がない領域だと思います。

 

客観視も、投資判断も、未来の現実を変える力です。

 

今まで生きてて、「その力が無くても十分生きてこれた」、あるいは、「未来のことは(自分の気持ちと比べて)価値が無かった」という人は、当然、客観視したり投資判断したりすることは無いはずなんですよね。

 

この両者で、コミュニケーションが可能かというと、けっこう難しいですね。

 

この構造を踏まえた上で、私だったらどうするか、と言うと、折り鶴折ってる人に「あなたの気持ちは相手に喜ばれると思いますが、千羽鶴は保管が困るんじゃないですか?」と言ってみて、

 

「あっそうか」という表情をする人だったら、たぶん意思の疎通は可能なんですが、「怒り出す」人だったら、どうしましょうか。

 

「自分の気持ちという戦車ですべてを蹂躙していく決意の兵士」のような人だと、ぱっと見話しても無駄、という感じがします。

 

(折り鶴を折った人は、攻撃的な態度ではありませんでしたが)もし気持ちを大事にするならヒーリングの役割りに徹した方がよかったですね。

 

そこに欲が強く絡むと、パワーが必要になり、暴走列車化しやすいです。

 

気持ちは「癒し」

力は「攻撃」

情報は「回避」

 

こんな感じで、使い分けをする必要があると、基礎知識として皆が共有できたら、コミュニケーションが取れるかもしれませんね。