対立項の境界線

最近、一日に2本も3本も日記を書いていますが、なぜかというと第一に暇だからです。

 

ずうっと体育座りをして時間を過ごすのも人間の生としてはアリなんですが、シンプルに楽しくないので、日記を書いています。

 

あと、大量に日記を書いている理由は、「これだけ乱雑に書きまくっていれば、ボロが出るだろう」と思っているからです。

 

そのボロをジャッジするのは私自身ですが、そのボロを出す程度の「ヘボさ」、「至らなさ」自体を好んでいるし、あと「欠点を知る」と言う観点で有用だからです。

 

日記は一応ちゃんと書いているので、読む人にとってメリットのある形になればいいなぁと思っています。

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今回のタイトルは「対立項の境界線」ということで。

 

抽象的でよくわかりませんね。なので具体的に書くと、そんな難しい話ではないです。

 

例えば、「海抜0m」においては、水面がプカプカしていますね。

 

本当の定義はそうじゃないかもしれませんが、ここでは「水面がプカプカしているのが」→「海抜0mだ」ということにして書きます。

 

では、「海抜マイナス10cm」と、「海抜プラス10cm」をイメージしてみます。

 

これらに、どのような意味があるでしょうか?

 

「海抜マイナス10cm」→人間が息できない(死ぬ)

「海抜プラス10cm」→人間が息できる(生きていられる)

 

ですね。他にも意味は付けられますが、とりあえず今はこれにフォーカスします。

 

人間目線では、主観のフィルターを通した場合では、このように、ただの直線上の任意の2点A、Bが天国と地獄の意味を持ったりするケースがあります。

 

「世の常識をひっくり返してやる」というモチベーションを持って語るのであれば、

 

「海底からの垂線を物差しにすると、人間の生死の意味など恣意的なものであり、無意味だ」

 

とかゆうヘンテコ言論が生まれたりします。「時間は存在しない」とかいうアレですね。

 

ここでは、人間による意味づけの是非は問いません。

 

ポイントは、「人間の意味づけ」とは無関係な、極めて客観的な物の見方(尺度)を見いだすことができるということです。

 

この技術は、「やっかいな意味を持つ対象を、処理したい場合」に役立ちます。

 

私にとって、やっかいな意味を持つ対象の例は、「プーチン」ですね。

 

彼は敵・味方共に蹂躙する、ひどい奴です。

 

しかし、人間の構成員の一人なので、「こいつ排除しようぜ」というのが簡単に言えません。「ぶっころそうぜ」は言えますが(プーチンが殺してきてるのだから)、「排斥しようぜ」は、合理性から言いにくいです。

 

こういう、ひどい意味を持っているプーチンを処理しようというときに、先ほどの「極めて客観的な物の見方」が役立ちます。

 

簡単に言うと、「正義と悪」の意味づけとは無関係な、「海抜○○m」のような、客観的な尺度を導入するということです。

 

「正義と悪」の場合は、客観的なのは「感受度の尺度」でしょうか。

 

「パートナー(恋人)を、やさしく撫でる」のが「プラス100」の意味だとすると、

「敵兵に拷問をかける」のが「マイナス100」ですね。

 

その境界の「プラスマイナス0」付近では、

 

「おせっかい」みたいなものがあるのでしょうかね。

 

とりあえず、「プーチンは絶対悪だ」というのは、扱いに困ってしまうので、

 

プーチンはマイナス感受度の『一極』だ」という解釈にすると、彼の扱いができるような、適切に処理できるような気がします。

 

正義だ、悪だ、の意味づけをしてしまうと、「お前悪だな、私刑にかけてやる!」みたいな、不毛な戦争が生まれやすいので、

 

「この世には、感受度がプラス(幸せ)とマイナス(不幸)の世界がある」

「そのマイナスの方の極を担当しているのが、プーチンである」

 

という認識をすれば、彼を憎たらしいと思いつつ、その気持ちを横に置いておいて、適切にバランスの取れた対処が可能になるのでは?と思いました。

 

世の中の人間を性質毎に分布図を作れば、当然、「一番はじっこの人」つまり「極の担当者」は存在します。

 

真ん中の人は、普通の人であり、「みんなと一緒」を享受しやすいですね。ただし、普通すぎて、あまり会社の人事評価が高くない、という困難もあるかもしれません。

 

一方、「はじっこの人」は、基本的に悪環境ですね。多分、生きていてしんどいと思います。しかし、極というのは、「人類全体のポテンシャル」を体現しているので、

 

「はじっこにいればいるほど」、「めっちゃはじっこまで行ってる奴を味方にしている人類」は「能力的にすごい!」という意味を持ちます。

 

当然、めっちゃはじっこの「変な奴」を仲間だと認識するのは、精神的にしんどくなります。「なんでこんな奴と仲間にならなきゃいけないんだ」という不満が出ます。

 

「なんでプーチンを仲間だと思わなきゃいけないんだ」

 

これは、ウクライナの人すべて、あと戦争を憎んでいるすべての人の心情で、それはそれでいいと思います。

 

ただし、プーチンの扱い、という国際社会の政治的な意思決定においては、そういう意味づけは、排除した上で、やった方がいいと思います。

 

彼(プーチン)は、「感受度のマイナス極担当者なんだ」

 

そう思うと、少し、彼に「お疲れ様です」という気持ちが私は芽生えてきました。

 

ただ、あんまりはじっこに行かれると、みんなしんどいので

 

「ちょっとこっち(真ん中方向)に来いや」と言いたくなります。

 

イスラエルパレスチナも、ひとつの極ですね。

 

あれは「物理圧力の極」でしょうかね。もっとも身体が挽きつぶされやすい場所だと思います。

 

私は言います。

 

「極担当者たち、よくがんばってますね、偉い!だから頼むからちょっとこっち来てくれよ、みんなしんどいってよ」

 

というコミュニケーションが取れたらいいなぁと思っています。