力と社会

私は13歳くらいのときに、「強い人間になりたい」と切に願い、主に情報収集力を鍛えてきました。

 

つまり言い換えると、12歳以前は「強くなりたい」とは思っていなかったということです。自分が強くならなければきつい環境に置かれたから、仕方なくそれを「受けて」、強くなるための行動を取ったのです。

 

考えてみると、基本的には、人間は別に強くならなきゃいけない必然性って無いんですよね。

 

もし弱ければ、自然の猛威にボコボコにされたりしますが、それを許容できるのであれば問題はありません。許容できないと思う人が多いかもしれませんが、そのなかに「そもそもそんなに頑張って生きる気がない」という感じの人は多いのではないでしょうか。

 

例えばプーチンも力の信奉者と言われていますが、「なぜ力を欲するようになったのか」、どういうインプットを経て、「弱いままだと危険だと確信」したのか、それを観察すると、ティーンネイジャーでも共感できる、わかりやすいノンフィクション映画が展開されていることでしょう。

 

強い人間が弱い人間をボコボコにしてる映画を良く見た人は、「強い力を振るう立場に行かないと危険だ」というのが普通の感想でしょう。

 

私はそういう映画をあまり見たことはなかったですが、別に相手が人間である限り、強かろうが弱かろうが、簡単に壊せるということは知っていたので、そっちの道には行きませんでした。

 

少年時代、母親から精神的にぼこぼこにされた私は、人をボコるのも、人からボコられるのもどっちも嫌だな、と心底思いました。それは私の感情の主な要素のひとつになっています。

 

プーチンは人間や建物を破壊するとき、自分の力を実感し感動(安心?)するのでしょうか。ウクライナ戦争での破壊力を見るに、自然の猛威の方がはるかに恐ろしいですけどね。

 

力をつけたら、自分が楽しい事が増えるし、他の人を助けることもできるかもしれない、なので、人生を豊かにするための一要素であることは確かですが、

 

みんながみんな、「そこまで頑張って人生を豊かにしたいわけじゃない」、ライトユーザーもいるんだ、という観点に立つと、弱くてもそこそこ楽しく生きられる社会を作ることが大事だな、と思います。

 

なんらかの事情により、力をつけた人間は、そういう「弱者生存を許す」社会を実現するために力を奮うと、ちょうど辻褄が合ってパズルのピースがはまったような音がします。

 

プーチンには、雪崩体験VR映像でも見せれば、少しは力への認識が変わるんじゃないでしょうか。