Youtubeでとある対談動画を見て、議論のテーマに対するアプローチがあんまりスマートではなかったので途中で見るのを中断しました。
なんか、よくわからないのですが、けっこう学術的な地位がある人でも、言語で思考しているような感じがします。
英語とかは、たぶんそういう作りですけど、日本語使う人は、言語化で形作られる以前のモヤモヤした思念の状態で処理できると思うんですよね。
日本語で、ロジカルに考えるって、私はやりにくいと思うのですが、一般的にはそうじゃないのかしらん。
今、私はこうやって日本語でアウトプットしていますが、これは情報伝達のためにやっている(思念から言語表現への)翻訳作業のようなものです。
翻訳と、あと、10mをいきなりジャンプするのは大変だから、10段くらいの階段に分割するための印として、言語を用いています。
おそらくですが、アカデミックな人にとっては、「完成品の情報は皆で共有するために言語で表現されるべき」という常識があるからそうしてるんでしょうね。
私は、それとは逆で「完成品の情報が、言語で表現できるわけないじゃん」と思っています。
自分で書いていて今気づきました。なるほど、そういう違いで、Youtube動画を見て私は「頭良いくせに、なにを意味不明なことをやってんだこいつら」と思ったわけです。
そうか、大事なことも、言語で表現されなきゃいけないのか。
私の日記とかは、完成品とかじゃなくて、「思考の流れ」を見せるために書いています。
もちろん「イスラエルはガザ市民の避難のために時間的猶予を持たせて欲しい」という意見を書いたりしますが、これはただのお願いの情報伝達であって、完成品ではありません。
「思考の流れ」とは、「10mをジャンプするには、こうやって階段作って飛んでんだよ」ということです。
私は、他の人の飛び方を見てみたいです。もしかしたら10mを2段(5m×2)くらいで飛ぶ人もいるかもしれません。
そういうことができる人は、もしかしたら言葉を使わないかもしれません。
「力強いハグ」が、最初の1段目の階段になっているかもしれません。やり方は人それぞれですが、
大事なことが「言葉で表現され、共有されるべき」と考えるのも、それもひとつの価値観として尊重しようと思いました。
ところで、この日記のタイトルは「哲学のススメ・エピソード0」というものになっているのですが、はっきり言ってなぜこのタイトルで書き始めたのかわからなくなっています。
哲学の定義とは、「哲学史の研究」かもしれませんし、「歴史上の思想文献の解読」かもしれませんが、私にとっての哲学とは「思考そのものの理解」です。
自分の思考のメタ認知ですね。この定義はウィトゲンシュタイン先輩と同じだと思っています。
これは完全にはできていなくて、おそらく機能的にも自分の思考の「一部」しか客観視できませんが、まぁやらなかったらパフォーマンス的に激落ちするので、不完全ながらやっています。
少なくとも、脳の「計算領域」⇔「言語認知領域」との情報のやり取りの分野については、ある程度客観視できます。
これができると、一つの現象に対して、「それに反応した思念立ち上げ」を複数選択することができます。
プーチンの残虐性に対して「戦うこと」もできるし「許しを請う」こともできるし「許すこと」も「無視すること」もできます。
これらの反応から、状況に合わせて選んで、アウトプットするという仕様です。
多重人格ではなく、ただ、脳の処理の一部への客観視を鍛えることによって、その一部の出し入れがある程度自由になるということです。
おそらくこれができる人は少ないかも知れませんが、別に特殊能力というほどのことではなく、私の他にもできる人は少なくないようです。
例えば俳優の人とか、得意ですよね。
「そんな偽った演技じゃなくて、自分のありのままの心だけが重要だ」
というのはもっともですが、私は
「自分の内部反応は何でも良いから、外部(プーチン)に対して私が実際にどの態度を取ったのかが重要だ」という考えです。
きっちり対象と対峙して、「受ける」ということですね。
今日の日記は、特定の誰宛てというわけではなく、虚空に撃ってますが、これも私なりの反応です。
「こういう風にしたらいいよ~」ということではなく、「そうしなきゃ自分がまずいことになるケースがあると考えている奴(私)がいる」ということを知って頂ければ幸いです。
その可能性、への気づき(もちろん棄却する判断をしてもいいですが)が、誰かにとっての活路になりうると考えているからです。
哲学どこいった。哲学するとできるようになるよ!