例えば麻雀では、こういう定石みたいな考えがあります。
「配牌で1枚しかない役牌は、他家に鳴かれる前(1巡目)に切ってしまうと良い」
他家に鳴かれる確率を考えると、
巡目が進めば、他家が役牌を2枚以上揃える可能性が高くなるので、
その可能性が最も低くなる1巡目で、いらない役牌を切り飛ばすのは、正着です。
でも、常に「役牌を早めに切り飛ばすことが正しいか?」というと否になります。
鳴かれて困るときは、当然、1巡目でも切るべきではありません。最悪、流局まで握りつぶすケースも許容します。
つまり、「正着とは、常に、状況次第」というのが麻雀でも、何でも、共通していることになります。
だから、「状況把握して→判断する」こと以外、ありえないという帰納になります。
しかし世の中を見ていると、
「弱い者を助けるのはルールに反する」とか
「弱い者を助けるのは正しい」とか
「悪いことをした後、謝って許しをこうのは、悪人道に反する」とか
「悪いことをした後、謝って許しをこうのは、まっとうな人の道だ」とか
「強者の言うとおりに従っていれば安全」とか
「弱い立場の人の声を拾えば世界は良くなる」とか
任意の判断軸の、極端な方どっちかが正解だ、という概念形態が採用される場合が多いように見えます。
○✖クイズを解くような感じで。
そうするのは自由なんですけど、
100%、精度は低いままです。数ヶ月前の私の麻雀の実力のように。
だから、そこから1歩踏み出したい人は、まずは、以下のことをやってみた方が良いと思います。
①状況を正確に把握する
②言語化できないような、自分なりの判断軸を持つ
これですね。
②の「言語化できないような」というのは正確な表現ではないのですが、判断軸が言語化できてる時点で、高い精度は期待できないので、こう書きました。
あと「自分なりの」とも書きました。
私もですけど、人間の判断なんてどうせ精度が低いんだから、「好きなようにやった方が良い」「好きな方向の方が、上達が早い」という意味で、こう書きました。
上記ができると、精度の低い○✖クイズから、1歩前に進むことができます。
これは理性面だけでなく感情面でも通じることなので、
実は、コミュニケーション能力が飛び抜けて高い人とかは、おそらく①②を満たしてるでしょう。私はできないので、羨ましいです。
ここまで書いた概念を、AI技術に応用すると、面白いことができるかもしれません。
「AIによる、最強の○✖クイズプレイヤー」の誕生が見られるかもしれません。
所詮、○✖クイズやってるのだから、AIの高出力でも、1歩踏み出した人間には勝てませんけど。
そういう勝負を、ショーとして見せると、面白い知的エンターテイメントになると思います。