自然言語の思考

数学とかは、数字の世界という、カッチリ枠があるフィールドが用意されている前提なので、数式言語でけっこう複雑なことも表現できそうです。これは私にできる、という話ではなく、得意な人はできるだろうな、という意味です。

 

しかし、文系的な手法・・・自然言語で表現するとなると、一気に難易度が上がります。

 

自然言語では、量を表現できないんですよね。数字だと、「三角形の3辺の長さが3、4、5」とか言えば、問答無用でそれを正確に表現できます。

 

例えば、国葬反対と言っても、「反対の理由Aが3ポイント、Bが4ポイント、Cが5ポイント、合計12ポイントで反対です」とか言えればいいんですけど、これが自然言語だとできないです。

 

「この問題はとても大事ですよ」とかゆっても「正しいかどうかはわからないけど、あなたはそう思うんですね」とかしか反応できませんし。

 

しかも、その問題の解釈は人それぞれ違うものであって、人によっては10ポイントだったり20ポイントだったり違ってくるので、そのポイント量の違いを、的確に表現することは不可能のように思えます。

 

その状況で、自然言語使いは何をするかというと、批判されにくい達者な論理構成の文章を自然言語で表現することによって、「相手を自分と同じ意見にしよう」とか「自分の権威を高めよう」とか、そういう方向にいっちゃうんですね。

 

私も、同じ穴のムジナですけど、私は日記は情報の垂れ流し、この情報を玉と見るか石と見るかはあなた次第です、くらいの意気込みで書いています。

 

「本来は、正しいことを自然言語で表現する、というのが理想的です。でもそれってかなり難しいですね。」

 

なぜなら、↑の文章のように、「正しい、誤り」「理想的、現実的」「難しい、簡単」の性質ラベルをペタペタ貼って、あとは「自然言語」等の名詞の意味ピースを使って、ものすご~く単純なことしか表現できないからです。

 

そこで、文章が得意な人は、語彙を増やしたり、自作のオリジナル名詞を作ってみたりして、読者を煙に巻くわけのわからん文章をこさえたり、読んだ時の心地よさをアップさせた文章をこさえたり、するのですが、これらは根本的な問題にまったくかすっていない、横道逸れ道ですね。

 

「横道逸れ道」というオリジナル単語を作ってみましたが、これもあんまり不毛だなぁと思います。

 

解決策としては、「自然言語で正しいことを言う目的を放棄する」ですね。

 

「正しいことは、私の頭の中にあります」で、いいと思いますよ。数学の世界だったら、これはダメですけどね。数学ならちゃんと数式を立てて、誰がどう見ても証明できないと、それは認められないでしょう。

 

ただ実際、数学者であっても「正しいことは、私の頭の中にあります」なんだと思います。理屈は後付けということです。

 

数学は、後付けの理屈に厳密性があり、人文学系は、後付けの理屈に厳密性が無いという違いです。

 

こういう状況判断ですので、私はいつも「インプット→ブラックボックス→アウトプット」のセットを見たい、そんでブラックボックス(頭の中)を見たい、と言っています。

 

この方向にしか、行きようがないんですよね。もし違うアプローチがあるならば、それをぜひ知りたいです。