最近、大学生の若い人のツイートを見て、その人はZ世代を自称していたのですけど、
日本の経済的な落ち込みによる、若者の負担増(高齢者への恩恵莫大)を非常に憂慮していて、
しかし、悲観するだけでなく、きっちり合理的に考えて、ファイティングポーズを取っている姿勢が見られて、応援したいな、と思いました。
考え直してみたんですが、やっぱり世代間対立については、ちょっと無理筋じゃないかと思います。
そもそも高齢者世代においては「日本の状況を良くする」or「日本の状況を悪くする」の二択が、「行われてないし」「やる能力(機能)も備わっていない」場合がほとんどなんですよね。
うちの父親も、「誰かが得をするなら、誰かが損をしなくてはいけない」ゼロサムゲームの世界観で、
健康保険にしこたまお世話になっている立場で、保険料増額の話がでると、「なんてことだ!そんなことあってはならない!」みたいに反発します。
ゼロサムゲームであるならば「どこどこまでも競争し、大勢の他人を屈服させ、自分が利を得る」ことが、「正当化」されます。
「正当化されるし」、同時に、「もしそれが何らかの罪悪であった場合なんて、(自分の人生まるごと大きな過ちのように思えてくるから)とても耐えきれない」=「そんな場合は存在しない」
という思考回路のようです。
あと、田原総一郎さんとかも、「自分は日本を良くしようと思っている!」とよく主張されているように、
「そもそも日本という『場(ゼロサムゲームの競技場)』を、どうこうできるような機能を、自分たち(高齢者世代)は持ち合わせていない」ということを、よ~く自覚しているからからこそ出てくる言葉なんだろうなと思います。簡単に言うと、「うしろめたい」。
ただただ、お上を信じて、個性も犠牲にして、「お上がGOと言ったら正しいことなんだ」と判断し、スタートの合図の号砲が鳴ったら、
巨大な群衆の押し合いへし合いの競争をして、「お前らを犠牲にしてオレが利を得る」のゲームに邁進する、死ぬまでそれを続ける、「それが最も正統な者である」という認識。
で、私目線では「こりゃちょっと、自律制御効いてないな」→「もういってらっしゃいの『泳がせ』しかできないな」と判断しています。
なので、冒頭で触れたZ世代の有望な若者のように、世代間対立の絵図でどうこうしようっていうのは、ちょっと負け筋だな、と思います。
例えば、安部さんのアベノミクスも、3本の矢の内の一本である、肝心の「経済成長」が、ほとんど成果が上がらず、
量的金融緩和?によって、現在の悪い円安をサクリファイスとして、当時の「現状維持」をテイクするという「何かやってる感・メンタルケア的な政治」だったわけですが、
私は、当初から、「安部さんは、日本を良くしないだろうな(できないだろうな)」と思って期待していなかったし、当時から難局であったため、
「余計なことして、傷口を広げるんだろうな」という予測で、こういうのって、「制御できる(例えば政治に影響力を持てる)」前提であるならば、
アベノミクスとか、悲観的に捉えるのが自然なんですけど、
「元々問題解決能力とか意志がないのは明白なので」「道路に水をぶちまけたら、水がバシャーっと飛び散る」ような物理現象として、
当時の問題が、時間経過で、より悪化するだろうな、と予測するだけなんですよね。
そもそも制御できると思ってないから、「悲観も楽観もなく」「ただ、そうなるだろうな」と思うだけです。
こういう態度は、「ニヒル」な感じがしますが、実は「単なる諦観」ではないです。
私が今見ているのは、
私の父親とか、田原総一郎さんとか、安部さんとか、
「それだけ、自分の好きなように走り続けた人生の結果」「あなたはその人生をどのようにレビューする?」というところを大事にしています。
思う存分競争した、他の競争相手(下の世代も含む)を押さえつけて、制して、
自らの「素晴らしい人生」に、できる限り近づけることができた。
安部さんも、かなり長期の政権を維持しましたしね。
「それで」「どうだった?」「満足したかな?」という問いかけをする必要があると思います。
答えは、どうなんでしょうね。
「ここまで大勝できたなら、自分は優れた人間の証明となり、何なら1万円札の肖像にでもなれるだろう」
という答えでしょうか。
一体、何を期待しているのか、答えを聞いてみないとわかりませんが、
「期待通りの成果を得られた」と言い切ってくれるのであれば、
現在の日本の危機的な状況も、「そうか、やってよかったなら、あなたは良い人生だったね」
と言いたいです。
もしも、そうじゃなくて、
「自分でもよくわからない。気づいたらここまで走ってて、気づいたら日本がひどいことになってた・・・これから自分はどうなるんだろう・・・怖い・・・」
とかゆうなら、ため息しかでませんので、そうじゃないことを祈っています。
おわり