ある人が、例えば「社会においては法は守らなければいけない」と言ったとき、
いろんなリアクションがありえると思います。
「その通りだ!」と肯定の意思を示す人もいるでしょうし、
「良い人ぶって正論振りかざしてんじゃねぇ、偽善者が!」と反発をする人もいるでしょう。
ここで問題なのは、「法は大事だ」と言った人が、どんな状況で言ったのかということを考慮した方が良いということです。
もしも余裕ありありの富裕状態の人が、さらなる「環境改善」という利を得ようとして、言ったのであれば、
「良い人ぶってんじゃねえ偽善者が!」という批判は、ある程度的を得ている(議論の余地がある)、返しであると言えます。
しかし、そうではなく、例えば「全然人生上手くいってなくて、コンビニ強盗しようかどうか本気で検討するくらいに困窮している人」が
「社会においては法は守らなければいけない」と言ったとしたら、
それは「法を犯すか?守るか?」ぎりぎりの葛藤のせめぎ合いの中で、渋々、妥協した上での、自己規制としての言葉である場合もあるのです。
そういう人に対して、「この偽善者が!」という批判は、断崖で踏みとどまっていた人を突き落としてコンビニ強盗の方に行ってしまう一言になりかねないので、
あんまりやらない方がいいだろうな、と思います。
つまり、言葉の背景には、人がいて、その人を取り巻く状況についてはあらゆる可能性があるので、
軽率に、批判を飛ばすべきではないんだろうな、と自省も含めて思いました。
相手が明らかに余裕があって、批判することによって、より建設的な議論ができるのであれば、GOしていいと思いますが、
そうじゃなくて、嫌々、しぶしぶ、大人として守るべき建前を「よっこらせ!ハァハァ・・・」と一生懸命固持している人に対しては、
「わかりました。あなたはそうなんですね、それで良いと思いますよ」と、
やさしい言葉で、連帯をした方が、まるっと納まると思います。
批判する方が、余裕ない、というケースもあるので、なかなかそういう光景は見られませんが。
日本では、議論がちゃんと進んでいるケースの方がレアですが(そもそも他者との意見の相違を許容できない文化がある)、
ツイッターとか見てても、議論っぽい進行を見せるケースもゼロじゃないので、
私は、言葉の背景もできるだけ見て、議論になるならやる、ぎりぎりで無理そうなら、やさしくする、という感じにしようかなと思います。
資本主義で、金持ちはさらに金持ちになり、貧しい人はさらに貧しくなるという作用がありますが、
議論に関しては、豊かな議論が醸成される場がほとんどないという、
この貧しさを、どうにか挽回できないだろうか、とか考えています。
議論がトントン進むと、加速しすぎちゃうから、そういった行き過ぎに対しての抑止なんでしょうね・・・。
しかし、安定した社会においては「集団が誤った道にまっしぐら→事故」の機会は減らす必要があるっていうのも、私目線ではあるので、
そこの兼ね合いが難しい所です。
とりあえず、私は、ぎりぎりの人がこさえた精一杯の建前を、壊さないように気をつけようと思いました。