理性を使って、何かをやるということは、
「危険エリアと安全エリアを見極めて、安全エリアに移動する」という営みです。
例えばキングコングの西野さんは、「エンタメ界」で「ビジネス」をがんばっているそうですが、
そのラジオをYOUTUBEの切り抜きで聴いてみると、
「~するのはダメで、~するのが良いよ」
「本物のリーダーは、~をやらないで、~をやるよ」
「~のような人とは、一緒に働けないから、即クビにするよ」
と言う風な言説が多いです。
これはつまり、何かのビジネスをする際に、「ここが危険エリアだよ、ここが安全エリアだよ」という区分けを、みんなに教えてるっていうことです。
この前提には、「危険エリアに居続ける、又はそこに突っ込むことは」「確実に損害を被るので」「誤りである」という考えがあります。
まぁ、当たり前と言えば当たり前なんですけど、
例えば、山道とかで、「落石が非常に頻繁に起こるルート」は「危ないので」、「そこを通るのは誤りである」というレベルの、至極当たり前の判断です。
ただ、世の中には、「落石が非常に頻繁に起こるルートである」という情報を持っていない人が多いし、それを探知しようとしても、よくわからない、できない、というケースが多いです。
例えば、自分の不幸は、「すべてあいつらのせいだ」あるいは、ネタニヤフさんのように「神の意志だ」と、思っている場合、
「危険を避けて、安全を追う」という仕草自体に価値を見いだせない。
そんなことを苦労してする必然性がない、なぜならこの不幸は自分のせいじゃないのだから。
で、結論としては、理性的に安全を追っても、あるいはそうじゃなくて、「自分の居る場所が安全か危険かに言及せずに」「活き活きと夢を見る」をやっても、
どっちでもいいんだろうな、と思いました。好きな方をやってたらいいと思います。
ただ、現実として、「ある山道には頻繁に落石がありますので」
その現象に応じた被害というのは、粛々と、発生することになります。
それを、ただ、見ているというある種の無力感を感じます。
「そっちは危ないよ~」と言っても、
「いや、そもそもその概念で生きてないから!」
「(何も見えてない、小賢しく考えない)私たちのままで輝く夢をみてるんだ♫」
「そのよう(人間世界は弱者が輝くための舞台)でなきゃ、意味がない」
「強者しか生き残れない世界を許容し、認めてしまったら、根本的解決(救い)になっていない」
という、「向いてる方向が違う」現象があるので、「なるほど、そうなんですね」としか言えない。
私は、「自然界の弱肉強食サバイバル」を受け入れてしまったので、そういう夢はそこまで見ていません。
ただ、強くても、弱くても、あらゆる人が「一緒に活き活きと生きれたらいいなぁ」くらいに思っています。
あとは、政治的に、「安全、危険の区分けが」「全員十分にできちゃうと困る」という意向が働いてるのも大きいですね。
という色々な事情があり、特に「世界を変えるような」建設的な意見は私は出ませんでしたが、
「客観的に見る」だけでも、効果があるので、今日の日記を書きました。
ここで一句詠むと
「世界が変わらなくても 自分一人が変われば 世界は変わってるんだな」
おわり