もし情報マニアを育てるとしたら

私のように、純粋に、情報を得て(ある情報を脳みそにぶちこんで)、幸福感を得るタイプの人間は少数派のようです。

 

大体の人にとっては、情報は他の欲を満たすための道具でしょう。それはそれでもいいんですが、間接的に利用できる情報は、それ自体あんまり興味ないでしょう。それに向かう情熱とか、根性とかは、情報自体に価値を求めた方が有利かもしれません。

 

ということで、もしも自分に子供(AI子供でもいいですが)がいたと仮定して、その子にどういう教育を施すか考えてみました。

 

①フィールドをめっちゃ広くしよう

前にも言った通り、人間が認識する「理」には適用可能範囲があります。世界丸ごとをぶった切れる剣はなかなかないです。よって、「理」は(情報マニアにとっては強力な矛ですが)、万能ではない玩具のような存在だという認識が正しいです。しかしながら、「理」が読めないとすぐ死ぬ(無駄な失敗をする)ので、この「理」をできるだけ厳選して、より「広い」世界をぶったぎれるものを掴む、というのは生物一個レベルでは、重要なポイントと言えると思います。空間的な広さと、あと時間軸方向の広さも大事ですね。時代の変化に耐えられず没落する人はよくいますが、それは大体「個人の夢想」を固定された現実のルールだと誤解釈することによって起こります。誤解釈をせずに、現実をありのままにインプットすれば時代が変わっても通用する理を掴めます。

 

②模型を大事にしよう

理を掴んできたら、今度はそれを頭に刷り込んだ状態で、現実に起こった事柄や現象(模型)を全てチェックしていきましょう。模型が実際に出現したということは、それは理に貫かれているはずです。「これって合理的じゃないな?」と思う模型を発見したら、その原因は「あなたの理がヘボい」or「模型を十分に把握していない」のどちらかに仕分けできます。どっちかしかないので、この仕分けは簡単です。理がヘボいとしたら、①に戻って研ぎ澄ませましょう。①が十分である(対象を見切れる自信がある)としたら、「模型を十分に把握していない」が原因だと確定します。ここまできたら、さらにもう一歩進めます。まず「模型において、ある情報を得ていないことによって、あなたの目には不合理に見える」この事実をインプットします。で、あなたには「理」と「不十分な模型の情報」「模型が不条理に見える」の3つの情報が揃っています。ここから、1次方程式を解くようにして、未知のある情報「X」をある程度特定することができます。ある程度特定というのは、「考えられるXの候補をすべて列挙する」ということです。複数列挙なので、「どれが」事実と等しいのかわかりません。そこでさらにもう一歩進めます。「列挙したXのうち、どれがもっとも理に適っているか」をチェックします。そうすると「おそらくXは〇〇だな」と思ったものが、事実と等しくなる確率が上がります。この技術を研ぎ澄ませたものが「洞察力」です。洞察力を研ぎ澄ませるのには「現実に存在している模型」と戯れることが効果的です。

 

③自分が何をやっているのか把握しよう

人間は、過去・今・未来のうち、今しかわかりません。過去は思い出せますが、「過去というコピー情報を思い出している今」のことしかわかりません。なので、自分が何をやっているかについては、「現在進行形で過去のコピー情報を再生し続ける」という方法しかないということです。なんという縛りプレイでしょう。で、ここでも理を用いて、過去から現在を経て未来まで続く模型の動きのうち、本質的な部分だけを再生し、脳のメモリー消費を抑えた再生をします。本質的な部分とは、「その模型対象に潜在している内外への作用能力」みたいな意味です。この再生処理は、言語思考ではないので、言語で説明してもピンと来ません。例えば、「飛行機が飛んでいて、その飛行機がハイジャックを受けて、機長席が乗っ取られて、飛行機が墜落する」この流れを現在進行形で再生してみるといいでしょう。これは誰でもできると思うので、この再生をあらゆる場面、あらゆる模型に対して、実行するということです。スッキリ言えました。しかしながら、自分が何をやっているのかを正確に把握するには、自分と言う模型を再生しなくちゃならず、この自分模型は「客観的に考えて」いますので、客観視の入れ子構造が出現して大変です。自分が何をやっているのか観測ができるようになったら素晴らしいです。今の私はできません。

 

④ちゃんと死のう

人は寿命で死んだり、ケガで死んだり、病気で死んだりしますが、これは壊れて機能不全になってるだけで、ちゃんと「広げた風呂敷を畳めているか」という観点で評価すると、落第です。死んだ後も、骨や肉は土に還り、どこかの生物の一部になったりして生は続行しています。そうではなく、きちんとあなたの発生によって生まれた影響をすべて回収して、死ぬことができるか、それは大いなるチャレンジです。夏だから、暑いから海行って、かき氷食べて、焼きそば食べて、花火して、ゴミ散らかして帰っていくのははっきり言って迷惑です。立つ鳥後を濁さず、自分をコントロールできないのならば「私は私だ」と言う資格はないと思います。言うは易し行うのは難しですけどね。

 

とりあえずこれくらいでしょうか。この教育によって、どういう子供になるのか、私と共通している所もありつつ全く違った特徴もあるような人間になったら、面白いな、と思います。