ツイッターで反省

ツイッターを見ていると、あんまり自分と関係ないツイートもあるけど、新たな視点を与えてくれるものもありました。

 

最近見て、反省しないといけないな、と思ったのが、「私は」を主語にしなければいけない個人的な言論を、「社会が」とか「みんなが」とか他者を主語にすることによってで、「押し付け」のような発信をしている、という批判でした。

 

「あー私やってるなぁ」と思って、反省をしました。

 

対応策としては、全部「私は」で語ればいいんですけど、ただでさえ私は孤独な道を選んでいるので、普通に考えを言うときは「私は」オンリーになりがちなので、それがなんかちっぽけだな、というネガティブな感情があります。

 

それが嫌だから、普遍的っぽいことを言いたい気持ちがあって「社会が」「みんなが」とか言っていました。

 

今回考えて、「まぁ、ちっぽけでもいいや」と思い直すことにしました。

 

今、職場環境に疑問を感じて、別の道に進んで退職した元官僚の人をゲストにしたアベプラ動画を見ました。

 

私は、ブラック体質の組織に関しては、存在することは許容した上で、潰すというのが良い対応だと思います。

 

潰すためには、頭を殺して急進的に軌道修正するか、自分が職を辞めることで人材の兵糧攻めをして、自然淘汰へもっていくか、どっちかですね。残って、コツコツ組織改革をするよりも、淘汰して消えた後に新しい芽を出す、というのが本来の目的に合っていると思います。

 

本来の目的とは、組織の破壊ですね。破壊されるべきものだからその影を落としている、のがブラック組織です。「私は」そう思っています。よし、よし。

 

もしもブラック組織の執行部が組織の繁栄を願っているのなら、相談して協力する道が残されますが、そもそも潰そうとしているなら、「どうぞ潰れて滅んでください、代わりはいくらでもあるので」というのが平穏です。

 

官僚組織は、国の行政を担っているし、政治家をハンドリングするくらいの力があるので、滅ぶと国民はとても迷惑ですが、そこに落ちる影というものが、良識とか、手加減とか、そういう一般人感覚の外から来ているものなので、普通は防げないですね。

 

別に潰されてもまた作るだけだし、2歩下がってから3歩進む、で良いと思います。つまり、「止まれ」ってことですね。「止まれ」なら止まりましょう、進めるときに進みましょう、そんな感じで良いと思います。

 

あっ違う。「私は」止まるときは止まって、進むときは進みます。これが正解か。

 

考えを表現するのは難しいですね。