居場所

昨日、家の近くを歩いていて、チラっと一瞬、周囲の風景が、自分の感覚とリンクしているような感じになりました。

 

おぉっとなり、何か行動を起こして物質世界を改変したいという欲も出ました。

 

ほんの一瞬なのですが、おそらく、この感覚が普通なのだと思います。

 

私にとっての普通は、もっと観念的な世界を感じていて、生きていても夢遊病のように、フラフラとしているようなものです。

 

視覚によって目に見える物質の動きに、意味を付さない、意味をひっぺがす、ということをしています。なぜかというと、それらを関連付けてしまったら、物質世界に定住状態になってしまうので、それを避けるためです。

 

どんな世界であっても、-例えば富士山がクルクル縦回転して山頂からミルクを噴射していようとー対応できるような情報処理のソフトウエアを脳に実装するぞ、という意気込みです。

 

「富士山は回転しない」と、誰もが思ってるし、私もうすうす「回転しないだろうな」と思っていますが、回転しない根拠なんて何一つないんですよね。根拠がない以上、富士山は回転しないかもしれないし、回転するかもしれない、というのが正しい現実把握です。

 

そういう感じで、世界を見ているので、犬に吠えられてびくっとするのも、しょうもないことだなぁと思っています。

 

犬がほえたなら、「あぁ、犬が吠えたな」という事実確認ができれば十分であり、それに対して「怖いな」とか「びっくりしたなぁ」とか「飼い主は十分なしつけをしていないんじゃないか」とか、リアクションすることに意味を見出せなくなります。

 

自然体で、反射的に、感情が反応するのは、ただそこに在ることなんですが、「犬が吠えた事実」と、「私の感情が動いたこと」を結びつける行為、つまり「犬が吠えたせいでびっくりして怖くなった」という認知は、その人の情報処理の業によるものです。

 

「犬が吠えたせいでびっくりして怖くなった」

 

だから

 

「犬に反撃して退治しよう」とか

「飼い主に文句を言おう」とか

「逃げて距離を取ろう」とか

 

こういうフローを俯瞰してみればわかりますが、「犬が吠えたせいでびっくりした」という認識自体が、その後の行動の基礎を成しています。

 

それを踏まえて、「その主観、どうなの?」という懐疑があっても良いと思います。

 

私だったら「犬が吠えた」「私がビックリした」というのを結合させません。それぞれ別の現象としてインプットします。「びっくりした理由は犬が吠えたから」ということの根拠不十分だからです。

 

なんか、細かいわけわからんこと言ってるな、と思われるでしょうが、ここの認知は「行動の基礎」なので、この初期段階でのミスは、大きな損害につながるという構造があるので、私はそれが怖くてできません。

 

今日の日記のタイトルは「居場所」だった。何が言いたいかというと、私は物質世界を自分の唯一の居場所とは思っていないが、他方、多くの他の人は物質世界が居場所で、認知の癒着、根を張っていると言っても良いですが、一体化しているということです。

 

その認知の癒着を図るために、この地球環境が用意されているのですが、「ここがあなたの部屋よ、好きに使ってね!」「はぁい」みたいな親子関係みたいになっています。

 

相手が親ならば、信用して用意された部屋にどっしり構えるのもいいですが、「あなた、地球を用意した存在のことどれくらい知ってるの?」という疑問がわきます。

 

私目線では、「わけのわからない正体不明な存在から、地球を用意されている」という猜疑心がわくようなシチュエーションに見えます。

 

どういう意図でこの居場所を提供したの?とか、ここで私にどうしてほしいの?とか、疑問が尽きません。

 

疑問が尽かないので、地球に根を張らないという判断をしています。この辺も、あまりよく検討しないで「地球がある!ここで生活するぞ!」みたいな反射行動を取っている人が多いと思いますが、おいおい、大丈夫かよ、と私は不安になります。

 

まぁ、環境に根を張った方が、居住感は増すので、快適にはなると思います。環境に強く対応するということですから。

 

しかし、それを簡単にやっちゃうことによって払う犠牲も、見えていた方が良いと思います。

 

認知は人間の活動フローのかなり上流ですので、ここを洗練させることは、とても意義深いということも記しておきます。