「なぜ世界は存在しないのか」感想文 その2

1章 これはそもそも何なのか、世界とは?

 

<要約>

1、宇宙は物理学の対象領域である。

2、対象領域は数多く存在している。

3、宇宙は、数多くある対象領域のひとつにすぎず(大きさの点で最も印象的な対象領域であるとしても)、したがって存在論的な限定領域にほかならない。

4、多くの対象領域は、話の対象領域でもある。さらにいくつかの対象領域は、話の領域ではない。

5、世界は、対象ないし物の総体でもなければ、事実の総体でもない。世界とは、すべての領域の領域にほかならない。

 

<感想>

1章の最後に、要約がされていたので、そのまんま書きました。「対象領域」とは、私風に言うと、「何らかの志向で観測される場」の意味のようです。本書で挙げられていた例でいうと、家の「居間」は、物理学的な分析をされることがないので、それは宇宙とは異なる「対象領域」である、とのことです。

 

最後の方まで読むとわかるんですが、ガブリエルさんは、哲学を愛していて、しかし、学術界では、けっこう昔から最近まで、自然科学が隆盛し、哲学は軽視される傾向にある、それを不服に思い、哲学の価値を再確認したい、という願いがあるみたいです。

 

これでいうと、「世界は存在しない」という断定文も、前回の日記で言及した通り、やはり個人的な願望が介入していたか、という判断になります。

 

最後の方に出てくる、ガブリエルさんと同世代の哲学者ユルゲン・ハーバーマスさんは、「世界とは統制的理念である」と言っているそうです。ハーバーマスさん曰く「わたしたちは世界全体という理念を前提せざるを得ないし、わたしたちの経験・認識するいっさいのものを世界の断片として了解するほかない」という主張です。彼は哲学が扱う領域として「言語分析・言説分析」に限定して、この縄張りを守る、というスタンスを取っていると書いてあります。又、哲学の縄張り以外の分野は、自然科学と社会科学に委ねる姿勢、とのこと。

 

私は、ハーバーマスさんと近い考えですね。これはカントさんと近いらしく、へぇーと思いました。

 

私たちの見ている世界は、世界の断片である、まさしくその通りですね。ただ、人間は基本的に弱いので、「世界全体」の外枠をどのように引くか、については常にリスクがまとわりつきます。

 

例えば、日本の戦国時代に、ある足軽兵が「世界の頂点に立つ!」という意志を持って行動をする場合。その「世界」の定義によって、やるべきこととか、方向性とかが変わってきます。

 

「世界=日本」とするならば、戦功を立て、地方大名になり、さらに他の地域と戦をして勝って、日本全国の大名を従えるトップ大名になる、という方向性になります。

 

「世界=諸外国を含めた地球全部」とするならば、まず、やることは情報収集でしょう。ヨーロッパ大陸などの文明に触れて、めちゃめちゃ進んでるぞ、やばい、と思って、それを吸収するのが最優先になります。日本国内で日本刀で斬りあってる場合ではないのです。

 

「世界=他の生物も含めた地球全部」とするならば、恐竜の化石が大きな意味を持ちます。「でかくて強い最強捕食者が、全滅した」この歴史的事実を見て、「生物としての強さとはなにか?」という哲学的な論考が必要になります。手始めに、あらゆる生物の生態と、その関係性(食物連鎖など)について調査し、それを探るのがいいでしょう。

 

このように、世界の外枠をどこに引くか、でだいぶ人間の運命は変わってきます。なので、線引きをするときには、極めて慎重に検討を行うべきです。外枠を、大きく取れば取るほどいいわけではないのです。広い世界を想定すると、人間もそれに合わせてめっちゃ強くならなくてはいけなくなります。で、無謀な挑戦をする羽目になったりして、その結果、「今日の売上げが立たなくなる」リスクがあります。この辺はバランス感覚が重要ですね。

 

で、ガブリエルさんの理論に話を戻しますと、宇宙は、限定された対象領域のひとつにすぎない、と。自然科学は、すべてを語ることはできない、という考えです。

 

今の自然科学のアプローチですべてを語れるか、というと語れない部分もたくさんあるのですが、私の意見としては、自然科学でも哲学でも、手段は問わないから、一番効率的に全て(あるいは人間が線を引いた枠内の世界)を語れるようになったらいいんじゃないかなーと思います。

 

哲学は、私は好きですが、哲学が扱う場もまたひとつの対象領域にすぎません。人間の観測能力は、まるで刑務所の中の特別房で、拘束具つけられてるようなお粗末なレベルですから、哲学もその制限をバリバリ受けているわけです。

 

私も、哲学は好きですが、好きだからやってるというよりは、効率的に目的まで進むにはどうしてもやらなきゃいけない(重要だ)から、やっていたんですよね。哲学でも、数学でも、物理学でも、社会学でも、それぞれ進歩させて、場面に応じてカードを切っていけばいいじゃないですか。

 

これは予想ですが、例えば哲学だけで何かをしよう、とか、物理学だけで何かをしよう、とかいう発想をする学者は、今後マイノリティーになっていくと思います。

 

なんでも屋が強いですよ。いつの時代でも最強なのは、あらゆる能力因子についてバランスよく高い水準にある人ですから。