娯楽性日記 8/6その④

先ほどの日記で書いたように、あくびのような日記書きをしていきましょう。

 

※この日記は私目線で楽しむことを目的とした日記です。

 

テーマは「地球はXX工程説」です。

 

人間は地球上の生命ですが、ひとつのことに気づきました。

 

それは「私、人生2回目です!」という人があまりいないということです。

 

2回目の人もあまり見ないし、3回目の人も私は会ったことがありません。

 

もし仏教の輪廻転生のようなことが、多くの人が経験しているのならば、

 

カフェテラスとかで

「私前世がかなりキツくてまいっちゃってー、でも結局相方としょぼいハッピーエンドになったんだけど~」

「そういうのわかるー、マジ予定調和だよね~」

みたいな会話がありふれていてもおかしくないと思います。

 

でも、現実には「私、前世の記憶があります」とテレビのインタビューに答えるひとはあまりいないし、もしそう言ったら精神科医療への受診を勧められそうです。

 

そして女性はなぜか「人生は一度きりだから」という強調をしています。なるほど、確かに人生は一度きりだろうな、と私は思います。

 

ちなみに私は、前世があるかどうか知らないし、記憶は4歳くらいからしかありません。

 

つまり、地球での人間の生は、かな~り特殊な?工程なのではないかと思います。

 

特殊というのは、がっちり居を構えての本格的な生産行為、ではなく、キャンプでカップラーメン作るみたいな一工程じゃないかと思っています。

 

もっと適した例えで言うと、「人間の生とは、屋台で焼きもろこしに醤油を塗る工程である」と言った感じでしょうか。

 

一度塗るだけでいいし、何なら2度塗りしてもいいかもしれない。

 

とにかく、もろこしに醤油味がついて、美味しくなればOKの世界です。それを食す立場から見れば、味以上の意味は問いません。

 

で、醤油目線では、「何か知らないけど、もろこしに塗られて、食われる」それが醤油の人生となっています。

 

「私は食べられたくない」

「食べられることは天罰であり、我々は罪人である」

 

みたいな解釈が生まれたり。

 

「醤油としての幸せを追求しても、結局、乱暴にもろこしに塗りたくられ、破壊される」

 

という不条理さを嘆いたりします。

 

私みたいな知に偏っている人は、

 

「醤油から見える情報だけでは、屋台全体を把握できない!屋台の外にも、お祭りという行事が広がっている可能性がある!それは能力的に未知の領域だ!」

 

みたいなことを言ったりします。

 

この例えがもし正しいとしたら、

 

「醤油は、乱暴にもろこしにぬられる悲劇があっても、くじけずに、自分のできる範囲で、醤油として満足する良い環境を作っていこう」というのが正解になりますね。

 

まぁ、この例えはたぶん正しくないんですけど。

 

今、地球上で生きているということは、情報的にはかなりの制限がかかっているというのは確かです。構造的に「わからないようになっている」。

 

私は、その構造にも意味があるんだろうな~と解釈したので、じゃあ醤油として生きていくか・・・と今は思っています。