ドラゴンボールのサイヤ人はダメージを負って瀕死になったあとに仙豆とかで回復すると、パワーアップします。
一方、理性使いは、情報を得て、世界のことをよく知るほどに強くなります。
ただし、この強さは、理性使い本人のものではなくて、世界の方にそれだけの能力があるというだけです。本人は別に強くない、相変わらずちっぽけな1個の人間です。
対世界、対自然においては、勝つことは不可能です。魔法みたいに自由自在に操れたら勝ちかもしれませんが、そんなテーマパークのおもしろアトラクションみたいな環境は、今の所存在を確認できていません。
対自然では勝つことはできないけど、負けないことができます。自然は表面は色々変化しますが、それを貫いている理は変わらないからです。
図体がでかくてパワフルだけど、変化しない要素もある存在、それが自然です。
変化しないということは、時が止まっているようです。成長がない。だからそこに弱点を見出すと、「じゃあ私が成長したろうか」という戦略が正しくなります。
対人間の優位性を保つ趣旨においては話は違うかもしれませんが、対自然で負けないことを目指すのであれば、ガンガン自分が変化して、針の穴に糸を通すコントロールで安全地帯を駆け巡る(活路を見出して進む)ことが重要になってきます。
1メートル横の方がぶっ壊されても、1メートルの幅があれば事足りて、その傍から見たら明らかに危険地帯の中でも理を見切っているならばローリスクで突き進むことができます。
私の人生はほとんど対自然ですが、これはひとつのゲームの在り方にすぎず、全員がそれをやった方が良いとは思いません。
ただ、せっかく同じ地球に色んな人がいるのだから、こういう知見を社会に役立てた方が面白いなぁと思います。
世界ごちゃまぜによる不利益を、上回る利益を上げられなければ、ごちゃまぜ世界に負けることになるので。
正直な感想を言うと、あきらかに違うゲームをしているプレイヤー同士をごちゃまぜにするのって「やる必要あるの?」と感じます。
例えば書道家がサッカー選手と同じグラウンドでプレイする必要あるの?それぞれグループが分かれて、別の所で好きなことに打ち込めばいいじゃない、と思うのです。
それをごちゃまぜにするということは、真理として、「全ては区別しないことができる」→「みんな繋がっている」ということを踏まえての事象の現れなんでしょう。
「ごちゃまぜでも全然大丈夫ですよ!余裕で勝てますよ!」と言えるほどの能力を私は持ってないのですが、もしそう言えたらかっこいいだろうなと思います。
「自分が幸せな時、誰かが不幸になっている」
「自分と周りを上手に幸せにできる人と、自分も周りも不幸にしがちな人がいる」
この状況で、あなたの判断はどのようなものになるでしょうか。
何も考えず、ただ流れに身を任せるのみ。そういう判断があっても仕方ないと思います。