脱ネガティブの説得

ウクライナに限らず、人がネガティブに思える環境に置かれたとき、どのような心構えでいるべきかについて書こうと思います。

 

まず、ネガティブになる環境からは、基本逃げるのがいいでしょう。当たり前ですが、例えば、逃げられずに過労死してしまうという悲しい結末を迎える人がいます。「逃げる」にもある程度エネルギーがいるので、もしも「今」その余力がなければ、結果逃げることができず、自殺してしまう可能性は十分にあります。

 

よって、会社に入るときは「ダメな会社なら逃げよう」というカードを胸に潜ませておくことが重要になります。新卒入社や転職入社では、誰もが新しいステージに、不安もありつつ希望を持って入ると思うので、「もしもブラック企業だったら・・・」という仮想が難しいのかもしれませんが、あらかじめ「会社が〇〇の条件を満たさなければ、私は仕事をしない」と決めておくことは重要です。

 

もし会社が奴隷労働者を真に欲しているとしても、こちらがその意向に合わせる理由がありません。利害が一致しなければ、決別するのが一番自然でしょう。社員が大きな不満を持ちながら働くのは、会社にとっても不利益なことですしね。

 

で、ネガティブになる環境を避けて、次になにをすべきかというと、「自分はどうしたいのか?」ということに明確な答えを持つことです。アンパンマンの歌「何が君の幸せ?何をして喜ぶ?わからないまま終わるそんなのは嫌だ♪」にあるように、自分が何がしたいのかわかっていない人は、非常に苦労が増えます。ただでさえ生きるのは辛いのに、さらにハードモードになるので、これに関する哲学は万人に必要だと思います。

 

例えば、「高額のブランドファッションを身に付けたい」人は、本当に自分は「ブランド品が欲しいのか?」と疑ってみた方がいいです。遺伝子に「ブランドファッションを好んでいる」という記述はおそらく存在しないからです。もう少し掘ってみると「他人と比較して上位の身分クラスにいたい」なのかもしれません。これは、群れを成す一部の哺乳動物にも共通しているので、だいぶ掘れてきた感じがしますね。

 

ただ、動物的な本能は旧くてへぼいので、ここから、もう少し深く掘ってみましょう。「安全で、安心で、幸福感に満たされていたい」でしょうか。これはほとんど人間共通の願いかもしれませんね。つまり、人間はみんな同じ願いを持っていて、個々人の固定観念のバリエーションが、理論や手段の多様性を生んでいるということですね。

 

これをひっくり返すと「危険で、不安で、幸福感がないのは嫌だ」となります。この願望と比較して、現実世界はどうでしょうか?「危険で、不安で、幸福感がない」これって、めちゃくちゃありふれてますね。ウクライナはまさにそうでしょう。だから、世界はくそったれに見えてしまいます。しかし、私はそのくそったれをSTOPしたいです。この分岐が非常に重要だからです。

 

ここに来て、やっと理性が役割を果たします。例えば、太平洋の嵐の海の中に、人がポーン!と放り込まれたとします。当然、その人はガボガボ溺れます、苦しい、助けて、と思っているでしょう。「私の何が悪かったんだ!?」とその理由を探しているかもしれませんね。

 

ここで、今、この想像をしているあなたは、「海がくそったれ」だと思うでしょうか?否、おそらく「かわいそうだけど、荒れてる海の中じゃそうなるよね」と思うでしょう。

 

この俯瞰が第一に重要です。で、ここに洞察を加えると、第二の重要なことに気づきます。「海って、穏やかな時が普通だと思ってたけど、実は荒れてるのが普通なんじゃない?」ということです。

 

実際、現実世界では、暖かい日の光が差す芝生の上でのんびりゴロゴロして昼寝する、ということが可能なので、安心・安全・幸福感のある穏やかな状態が普通、本来あるべき姿だと思ってしまいますが、その根拠は?というと誰も何も持っていないのです。ただ、人が「そうだといいな」と願望を持っているだけです。

 

で、私の得ている感覚でいうと、「穏やかな世界」は結構な異常事態です。莫大な投資と、高度な技術で無理やり作り出しているようなものだと思っています。

 

SF小説の世界などで、「宇宙は神によってつくられたシミュレーション世界だ」みたいな発想がありますが、これは当たらずとも遠からず的な、ものです。

 

ただ、私が見ていたい世界は、混沌と対峙する「オリジナルの世界」であって、その内部に複製コピーした、何らかの特定の目的に沿って作られたシミュレーション世界が眼前に広がろうと、又はシミュレーション世界じゃなかろうと、重要な事は「オリジナル世界」の在り方を知ることと、それと私がどう対峙するかということです。

 

眼前に広がるシミュレーション世界は、オリジナル世界の「内部」にしか存在しません。生物学研究室の実験モルモットは、ケージの中にいますが、そのケージも宇宙の中にしか存在できないのと同じことです。

 

そして、ケージの中よりも、外の世界の方がよりシビアな世界である可能性もあるし、実際そうですね。野生で生きるなら、餌を定期的にくれる人はいませんから。

 

だから、私は眼前の宇宙よりも、よりシビアな、外のオリジナル世界を想定して生きています。これは理性を活用して生きるなら、遅かれ早かれ必ず経験する「意識の壁すり抜け現象」だと思います。

 

この前提でいくと、「安心・安全・幸福感のある」人生を追ってる場合じゃない、という発想になります。もちろん、幸せになれるなら、そのほうがいいですけどね。