娯楽性日記 8/12

よくわからないものが多すぎて、わかるものがほんの小さな一握り、暗闇の中のろうそくの火の明かりくらい心細い理解で、生きています。

 

「それじゃ心細いから」と多くの人は何らかの世界観、ストーリー性を信仰して明るく胸を張って生きていこうとしている。

 

この世界観に自分を重ねれば、その大きな力を味方にすることができる、みたいな。

 

力は、必要最低限あればいい、と私は思います。

 

ごはんを食べるために、お米を口に運べれば良い、たべたお米を消化して栄養にしてくれればいい、それだけでいいです。

 

「それだけでいい」と言ったものの、「お米を口に運んで、噛んで、消化して・・・」という働きは、かなりすごい機能ですね。

 

私はこの機能を作り出せるだろうか。現時点では無理である。

 

ただでさえ他力、ほぼ他力で生きている。人間として生きることはそういう在り方。

 

何をやるにも他力を味方にしなきゃ始まらないように思える。

 

突き詰めると権力への欲望とか。他力を操るゲーム。

 

私は、大きな力っていっても、それを制御するのが大変そうなので、とりあえずご飯を食べる機能だけで、手に余っています。

 

何か虫に攻撃されたとき、

 

殺虫剤で倒すか、おとなしく刺されるか、どっちが妥当かはわからない。

 

ただ、虫に襲われたときは、驚きと恐怖の中で反射的に逃げたり戦ったりするだけ。

 

そういう時に、大きな力が味方してくれたら心強いだろう。

 

私は、大きな力とはあまり関わらないところで、静かに居たり居なかったりしていたいです。

 

有と無の往復、それは幽霊のようだけど、確かに在るということ。

 

客観的に見て、自分のことがわかるようになったら、安心します。