娯楽性日記 8/12その②

今日はヤフーニュースで面白い記事を見つけました。

 

記事のタイトルは「『お金を稼ぐ』のはそこまで卑しいこと?日本人がかかりやすい『お金の呪い』を解く方法」です。

 

<内容の要約>

・昔から日本には「お金を稼ぐことは、卑しいこと」という暗黙の了解がある。

・人間には単純接触の原理(何度も見たり触れたりしていると好きになること)があり、お金に触れていると、「お金を使うことではなく、お金そのもの」が好きになる。

・まずは導入として、メルカリやネットショップへの出店などをして、実際にお金を自分で稼ぐ体験をしてみると、お金儲けへの抵抗感は少なくなり、これは貴重な体験となるはず。

 

こんな感じでした。

 

なるほど、お金そのものが好きになることはあるかもしれませんね。コレクター精神みたいな。

 

会社組織の歯車のひとつを演じてサラリーを得るだけの体験ではなく、販売~流通の一連の商売の流れを実際に体験してお金を稼ぐと、その価値に気づくこともあるでしょう。

 

私はお金儲けはあんまり興味ない(商売を体験して、成功しても、無感動ですぐに飽きそう)のですが、他の人たちがみんなお金儲けをがんばっているのを見ると、「こりゃまずいなぁ」と思います。

 

前の日記の資本主義の話でも言いましたが、資本主義のルールに(過剰に)適応すると、どうしてもお金儲け一本槍になり、資本主義がカバーできない分野がどんどんどんどん置き去りになるという現象があります。

 

もしも、プレイヤーがお金儲けだけ考えて、上手くいくのなら、私も何も懸念しませんが、実際、そのやり方では「上手くいってない」のですから、資本主義に「プラスアルファ」の要素が必要なのは明らかです。

 

「すべてのお金儲けが卑しい」とは思っていませんが、「お金儲けだけ考えてればいい」と思って行動するのは、「今の時点では」「怠慢」だし、「公の損害である」要素があると思います。今までの過去では、そうではなかったかもしれませんが、状況が変わっているということです。

 

あとは、お金が1万円あるとすれば、これは常に1万円です。

 

そうかっちり決まっているし、誰も疑いようがありません。そういう意味でお金は「強い存在」であると思います。

 

しかし、実際には、お金にはそれぞれ背景があり、同じ1万円でも背景によっては価値が変わります。「質が違うことによる価値の差」といった感じでしょうか。

 

例えば、

「まずいサンドイッチ(1個300円)を100個売って得た利益1万円」と、

「美味いサンドイッチ(1個300円)を100個売って得た利益1万円」は

同じ1万円ですが、明らかに質の違う、価値の差がある1万円です。

 

マクロ的に見れば、「サンドイッチ100個売れて利益が1万円」という情報しか扱わないので、それを見た経営者は「そうなのね」と思うだけです。

 

しかしその決算情報の背景として、

「まずいサンドイッチを100人が嫌々我慢して口に押し込んでいる」ことと

「美味しいサンドイッチを100人が喜んで食べている」ことは

明らかに質が違い、どっちが社会的価値があるかというと後者の方が優れています。

 

この「事実の背景を無視する」機能は、資本至上主義における、「有用な機能」でもあるし、同時に社会を蝕む「腐敗」でもあります。

 

だれだって、不都合な事実は見たくありません。だからこそ「資本至上主義」がヒットしたし、今もそれにしがみつきたい人も少なくないのでしょう。

 

まぁ、ある程度、腐敗が明らかになってから、重い腰を上げるでしょうから、その進捗具合については私は何もいいません。

 

時間が経てば、良い具合に変遷があるかもしれないし、いつまでも腐ったままで、誰かがヘルプを叫んでいるならば、なんとかしたいと思います。

 

結論としては、「今までのお金稼ぎ」+新しい要素「社会を腐らせない」が必要になってくると思うので、その準備を早めに整えた方がスムーズで良いですね、という話でした。