娯楽性日記 8/12その③

今回のテーマは「救いの手」について書きます。

 

世の中には、貧困とか、個人の努力ではどうにもならない問題があります。

 

がんばればたくさん金も稼げる、という見方もありますが、

 

健康上の理由とか、性質上の理由とか、環境から受ける影響とか、様々な事情により「がんばれない」ということはあり得ます。

 

そういうどうしようもない状況、抜け出せない状況にいて、息が詰まって苦しんでいる人を見たら、「どうにかして助けられないか、助けたい」と私は思います。

 

私自身が、まったく余裕もなく、あがいている状況であれば、そういう発想もないかもしれませんが、私は今現在は食うのに困っていないし、苦労もあまりしていないので、そういう立場ならば、困っている人を助けた方が良いと思っています。

 

しかし、助けると言っても、根本的に、私自身には力がありません。

 

助けるにしても、他力を頼ることになるし、行動するとしても、すでにあるものの配置の組み合わせを変えるだけのことしかできません。

 

これはどこかの大富豪の人でも同じ事であって、その人「本人の力」というものは本当に微々たるものです。他力で金を集め、有利なように配置の組み合わせを変えているだけです。

 

つまり、「人が人を助ける」というのはけっこう最初から計画が破綻していると見ることもできます。そもそもそんな力は人には宿っていないからです。

 

ただ、人には「配置の組み合わせ」を変えることはできます。

 

話す言葉の配置を変えて、「思いやり」を伝えたりできます。

 

人材の配置を変えて、「会社組織を運営」したりできます。

 

そういう力は、その人由来のもので、もしかしたら私にもできるかもしれません。

 

ただ、貧困を救う、となると難しくなります。それは、世界の一部には、喰い合い・奪い合いのトレードオフの人間関係(搾取と呼ばれるような関係)があるからです。

 

あちらが立てばこちらが立たずで、ある人の貧困を金銭で救えば、誰かがその分の金銭を失う結果になります。

 

最適解としては、「喰い合いをしてもいいけれど」「貧困の最低水準を、なんとか生きていけるくらいの水準まで引き上げる」ことだと思います。

 

ただ、これを実行する力は、誰にもありません。他力(世界が持つ力)に頼るしかないです。

 

お金持ちの人に「格差問題」を訴えても、そもそも能力的に、彼らには頼れないから、私は頼るのをやめました。もし頼れるとしたら、「あんまり過度に自分が有利になるように配置の組み替えをするのは、控えた方がいいですよ」くらいのことですね。

 

で、とてもパワーがあるように見えて実は力のないお金持ちに頼るのはやめるとすると、結局、「じゃあ自分は何をするのか」「何をしたいのか」という自分問題に行き着きます。

 

私の結論としては、「もし自分が助けてもらうとしたら、これくらいはやって欲しい、と思うことをしよう」となりました。

 

「自分の無理のない範囲で助ける」という線引きも頭に浮かびましたが、私に関しては(他の人がどう考えて、どうやっても自由です)、自分が多少無理をしてでも、助ける相手の人目線で、やってほしいであろうことを、やろう、と決めました。

 

その結果、多少、痛い目に遭っても、損してもいいじゃないか。

 

相手がそれで助かったなら、それは自分事でもあるし、上手くいったら「よかったよかった」と感じます。

 

以前の私から変わって、

 

「他力に頼ってばかりでも、いいんだ」

「自分が力があまりなくても、自分が思うようにやるのが大事なんだ」

 

と思うようになりました。じゃあ、そのようにやろう。