あなたとわたし、対面方式括りの関係性においては、
普通にやったら、「綱引き」「勝負」になります。
「苦しいのはあなたのせい」
「あなたを負かせて、苦しめることができたら、わたしは幸せ(勝ち)」
これの応用が、「競争」です。
「任意のあなたを高確率で負かせることのできるわたしになろう」
で、これらは良いのですけど、
なぜ良いかというと、「対面方式」は常に存在しうるからです。
「対面方式」が無いということは、理論上ありえない。
「あなた」と「わたし」と「それ以外の何か」、第三者を含む、包括方式が成立しうる場においては、必ず対面方式という「パズルピース」が存在するからです。
だから、それが存在することを否定することは、基本的にできない。
対面方式を否定すると、包括方式も瓦解します。自滅するから、それはできない。
だが、これも、もうひとつの事実ですが、
「対面方式」「のみ」の個体を、包括された場に置くと、それらの個体は「ひたすら潰し合い」をします。
個体本人目線では、永遠に「負けない、勝つ」を繰り返すだけで、通常営業ですけど、
それを客観的に見た個体は、「こいつら何やってんだ、ひどいな、危ねぇな」という解釈をします。
正確に言うと、「永遠の潰し合い」環境によって、非常に負けが込んで苦境に立っている一部の個体が、
その負荷によって臨界点を突破した場合、「包括方式」への離脱が起こる。
「包括的な場」では、潰し合いをする必要が無く、安定が得られることがわかった。
だからこそ、「潰し合いしている奴ら」を客観的に見て、
「こいつら何やってんだ、ひどいな、危ねぇな」と解釈するのです。
つまり、この「潰し合いってひどいな」という解釈自体、恣意的であり、
自己の存在のプロセスを辿ると、「潰し合いは『常にある』と認めざるを得ない」という認識が、正解になります。
正確に言うと、「幸せー不幸」の対立項を生む場において、通常営業のエネルギー循環を見る際に、「恣意的に」「ひどい」というレッテルを貼っているということです。
簡単に言うと、「あなたを奴隷扱いして搾取することも」「フェアな視点に立つと、『ひどくない』」ってことになるのです。
ああ、なんて都合の悪い真実でしょうか。
でも私は都合が良かろうが悪かろうが、関係なしに事実はあると思うので、そうなんだろうな、と思います。
ただ、エネルギー循環っていうのも、
「ありのままに流れる」でもいいし、どういう意志があろうと、その意志の在り方も含めてエネルギー循環なので(すべては包括されているので)
「潰し合いはひどい」もありうるし、「潰し合いしよう」もありうるのです。
「潰し合いをやめさせよう」もありえる。しかし、同じ程度で「潰し合いを積極的にやろう」も同時にありえる。
ということで、ロシアのような国と、自由な民主主義の国が同居する、みたいなことは確率的に十分高い、ありがちなことだということです。
なっかなか本題に入れませんが、ここで登場するのが「支配体制という妥協」です。
支配っていうのは、「効率的に省エネであなたに勝てている」「勝った状態で安定している」ってことです。
これは「楽勝」で、とても幸せなことです。
負けてる方は、ずっとガボガボ溺れているので、たまったものではないですが。
ただ、なんか「それって不平等でひでぇな」って言ってる奴がいることに気づきます。
「わたし」は「は?ひでぇって、どういうこと?不平等?相手を潰して搾取するのは当たり前じゃないか」と思って、
その妙な奴と、「対面方式」で勝負しました。
すると、「勝てませんでした」
わたし「クソッこいつおもしれぇな、全力でやったろうじゃねぇか」
結果、「やっぱり勝てませんでした」
わたし「うぅ・・・苦しい・・・もうだめだ」
わたし「わかった、わかった、アンタちょっと手加減してくれ」
わたし「潰し合いするときは、支配体制を微調整して、やりすぎないように安定させるから」
わたし「今おれが潰しているやつらも、そんなにめちゃくちゃ苦しめるようなことをせずに『バランスとって』『ひどくないようにするから』」
わたし「それで、オレのこともあんまり苦しめないように、勘弁してくれよ」
あなた「・・・是」
わたし(よかった、時間稼いでる間に、こいつに勝てるようにならないとダメだな)
わたし(必ずこいつの力を手に入れて、支配して、オレが勝ち続けるぞ)
・・・というストーリーがあったら、どう思われるでしょうか。
私だったら、「あぁ、やっぱりすべてはあるがまま」だな、と思います。
個人的には、あんまり極端なことが起こって、「何か」や、自分が引き裂かれるのは、いやだなぁと思います。
おわり