みんな大好き競争社会

私は競争よりも、諸悪の根源的な社会問題を無くした方が、いいなぁと思っています。

 

不幸を減らしたら、ひとりひとりに余裕が生まれて、色々な楽しいチャレンジとかも可能になるし、そもそも人が夢破れて無念の死を遂げるのは残念なことだと思っているからです。

 

あとは、自分が困っているときに助けてもらったら嬉しいし、基本的に困ってないのならば、別に助けてもらわなくてもいいし。自分がやってもらって嬉しいことをしよう、嫌な事はやめよう、という小学校の倫理と同じロジックです。

 

社会活動という枠であれば、私は人助けに終始することになると思います。余裕のある人をもっと後押しする、という発想はあまりないです。その人が自由に勝手にやったらいいことだし、もし自立している人なら、私が助けなくても自力で好きにやって、継続すれば何らかのいい成果もおそらく得られるでしょう。

 

だがしかし、弱者救済よりも、一般的にメジャーな考えは、弱者は利用し、酷使し、使い捨てて養分とする、弱肉強食がまかり通っている状況です。一部問題解決に当たっているNPO法人とかありますが、主流とは言い難い規模です。

 

この原因は、それぞれ個人が、自分の事で精いっぱい、余裕がない、身の保全を担保するだけの能力的な自信がない、等が挙げられますが、実際一番大きいのは「自分と身内の利益を追求するのが楽しいから」という理由ではないでしょうか。

 

純粋に、人助け、しかも弱くて劣っている人間を助けるのは、つまらないのでしょう。即物的な利益を得て、しかもそれによって自分の存在の優越性を実感する方が、遥かにわかりやすくて、楽しい。

 

これは、良い・悪いではなくひとつの性質ですが、この安楽を肯定すると、悪事もOKになりがち、という感じですね。

 

こういう状況なので、「弱肉強食やめよう」とか「ちょっと弱肉強食控えて全体のこと考えてもらえませんか」とかゆっても、あんまり効果は得られないでしょう。よって、この性質を肯定した上で、無駄を減らすようなシステムが社会にとってマッチしているし、望ましいものということになります。

 

ここで、現実とは一旦離れて、どんなルールが一番いいかなと考えてみました。

 

理想は「身の丈にあった生活ができる」社会ではないでしょうか。

 

現実で言うと、「身の丈」がわからんという状況です。自分はある程度変わらないけど、世界をどう規定するかによって、自分の能力評価、「身の丈」の尺度が変わってくるからです。

 

例えばゴッホは、性格に難があり、稼ぎも低い、社会人としては「不適合者、落第者」ですが、「芸術家」としては現代においては非常に評価が高いです。

 

このゴッホの「身の丈」とは?という問いは、簡単には答えられません。ゴッホは裕福な生活をすべきだったのか、又は、貧しくて当然だったのか、については世界をどう規定するかによって変動するので、「よくわからない」です。

 

この問いに、きっちり明確に答える、というのが理想的な社会だと私は思います。

 

「身の丈が低いと貧しい暮らしになる」これと同時に「身の丈を上げれば(努力すれば)必ず報われる」ということも意味する社会が良さそうです。

 

国民がどういう条件を満たせば良いのかについては、だれが言えばいいんでしょうね。政治家でしょうか。政治家が言わなくても、世論の流行で自然発生的にそういう価値観が醸成されるような形でも良いと思います。

 

で、それを作り出すために、「人間」と「世界」を規定しなければなりません。「地球環境に依存する生物としての人間」として規定するならば、それに従った価値基準で、それぞれの身の丈を測り、見合う報酬を与える、といった具合です。

 

勝手に規定していいのか、恣意的にやっていいのか、という疑問があると思いますが、私は別に良いと思います。たかが人間が形成する一国家の規範ですから、適当にやっても問題ありません。

 

肝は、「みんなを意欲的に競争に駆り立てて」「そのエンジンで国益を追求し」「無駄のない行動で、富を創出して公平なルールに基づき分配する」という点です。

 

ある人が、その枠に収まることが人生の全てだ、と思ってもいいし、いや、その枠は気に食わない、と思って道を外れてもいいでしょう。

 

国としては、こうやりますよ、よろしくお願いしますね。という表明をして、マジョリティがそれに乗っかり、トータルで見て採算軌道に乗る、という企てです。

 

競争したっていいじゃない人間だもの みつを