現在、学校で教えている内容・カリキュラムというのは、私が学生だった頃と大分変わって(良くなって)いる部分もあると思いますが、
依然として、「大学入試のための形式的な勉強」という側面があり、最近は「子供の中学受験、高校受験対策にハマっている父親男性(本人も高学歴)の意見」とかを読みました。
大学に行けなければ、就職も良いところにいけない、という事実がある以上、子供の経済的安定を求める親としては、「しっかり勉強して、この環境に対応して、高スコア叩き出しなさい」という志向になるのは必然かと思います。
他方、エジソンとか、ろくに学校にいってないのに「めちゃくちゃすごい探究心」だけで、電球を発明したり、偉業を成す人もいます。
こういう色んな子供を、すべて受け入れて、後押しのできる「教育」の在り方は、「うーん、教師への負担や教師の能力限界もあるし、青写真を描くのはけっこう難しいな」と思います。
ここで、「ちょっと変化球の教育革命」を提案します。
それは、「中卒の子供を、社会に出しちゃおう」です。
「子供が学ぶ場所は、学校でなければいけない」という縛りを、無くすということです。
「中卒?まだ何もわかってない子供じゃないか、そんなの労働力として使えないよ」
というのは、子供を舐めすぎだと思います。
私の所感では、「子供は見ている世界が比較的狭いだけ」であって、別に潜在能力的に劣っているとは見なせないと思っているからです。
私は、大人かどうか怪しいですが、自分のことを見ていても、「子供(10代前半)の頃から、視野を広げたら、ちょうど今の自分になるな」と思っています。
あと、これも根拠の無い私の所感ですが、人間の人格は、「男だったら12歳くらい、女だったら14歳くらいにがっちり固まって(完成して)、後は惰性で流れるだけ」だと思っています。
思ってる以上に、早い段階で、人の歩みというのは決定論的になるという主張です。
なので、別に平均的な学力の中卒の人(15、16歳)であっても、社会に出て、活躍することは十分に可能だと思っています。
昔の日本でも、丁稚奉公とか、幼いときから家庭を出て働いて、一人前になる人はいましたよね。それの令和版をやってみるのが面白いと思います。
問題は、雇う企業側の人事評価が、あまりにも減点方式に偏りすぎていて、「中卒の子供」は「即失格」みたいになる所だと思います。
「即戦力じゃなきゃやだ!」みたいな経営サイドの能力不足による依存ですね。
そうじゃなくて、「ようし、ネクタイの締め方、電話番の基礎からたたき込んでやる!」という師弟関係のような、教育システムを企業側が持った方が良いと思いますね。
これは、やればできることです。だって、江戸時代の日本の商家ではできていましたから。
要は、社員教育ができずに即戦力しか求めない企業側が、「商売に本気になるか、ならないか」という問題だと思います。
今は政治的に「商売に本気になっては困る」という都合があるので、そこはむじゃむじゃと、あえて考えないようにして(つまり無視して)
「やったるわ、人材を研ぎ澄ませて利益上げてみせるわ!」という胆力のある経営者が出てきてくれることを私は望んでいます。
で、もし中卒の人材を、一人前に育てることができたら、
「学校は、学びたい人だけが行くところだよね」となります。
これによって、「学び舎としての機関」として、軸のちゃんとある、腰の据えた運営ができるようになるし、
大学も、「本当に学びたい人だけが、高い授業料を払って門を叩く」という、教員からしても好ましい状況が作れます。
要するに、今のように「学問をしたい需要」と「一人前の社会人になりたい需要」を、大学とかが、同時に満たそうとするから、話が難しくなるわけで、
大学は学問をするところ、と役割を特定して、
社会人は、社会の器である各企業が、取り組んだ方が、スムーズに行くなぁと思いました。
中卒の子供を、一人前にできる企業は、例えば前科持ちの中年おっさんであっても、おそらく使えるようにできると思います。
そういう力は、失業率の減少、ひいては治安維持に寄与することになります。
「即戦力しか許さない」「減点されたくない」社会は、もっと、懐の広い、包容力を持った方が、いろいろ良いことありますよ、という案でした。
頭の片隅に入れて置いてくれると幸いです。