弱者の流儀

大体、地球を見やると、虐げられている人の方が多数です。

 

「その悪環境を、受け入れられない、変えてやる」と立ち上がった者は困難な過程を経て強者となり、平穏を手に入れるかもしれない。

 

「苦しいけど、どうしようもないよね」「こんなひどいことをする奴(あるいは世界)が悪い(悪い奴・世界に責任がある)よな」

 

と、愚痴をこぼしつつも、「その悪環境を認めてしまったら」、本人が望んでいない「固定化が」実現して、おそらく何も変わらない。

 

地球の管理者も、原則的には「自己都合に沿った干渉しかやらない」ようです。

 

なので「助けて神様・慈悲をプリーズ」と祈ってもしょうもなく、「自分の環境を良くするならば、自力でなんとかしなきゃ(最低限、その意思を行動で示す)」というアクションが必要不可欠になってきます。

 

と、私は思っています。

 

しかし、弱者は力がない故に弱者なのだから、「そういう一念発起は、無理だよ」となり、ジレンマに陥るのが普通だと思います。

 

じゃあどうするか?というのが難しい問題で、

 

道標を掲げるとすれば「自分にとって、何か長所とか、こだわりとか探してみよう」ですね。

 

まだ、長所とは言えないまでも、「これは許せない」という変なこだわりであっても、それは研げば鋭くなるひとつの才能です。

 

他人との比較ではなくて、ちゃんと自分と向き合って、対話するのが良いと思います。

 

「すべての抑圧を許せる」「どうでもいいよ」がもし本心であるならば、弱者のままでいいでしょう。苦しんでも大丈夫です。

 

ここまで書いて、まるで「弱者であることが本人にとって問題である」様な感じで書いていますが、

 

実は、「きっちり苦しんでくれる」人というのは、ある意味、利用価値は高いです。

 

はっきり言って、すごい偉い人です。

 

ただ、苦しいので、嫌でしょうけど。

 

苦しんでくれる人がいるからこそ、喜びなども実現されます。

 

私は、喜びたい気持ちはあまりなく、プラスマイナス0でいいやと思っているし、そこ(ゼロ)に押さえ込む力が必要だと思っています。

 

「すごく偉い、苦しむ弱者」になるか、「わがままな強者」になるか、「無を実現するシステムの部品」になるか

 

大体、方向性としてはこんな選択肢かなぁと思います。

 

これを能動的に選択したら、そうなるかもしれないし

 

選択しないで、ただ漂うなら、ベルトコンベアに乗って自動的に振り分けられるだけですね。

 

私としてはとりあえず、すべてコンプリートすることになるだろうな、と予想しています。