包括路線でがんじがらめ

包括的な方法論を、極限まで研ぎ澄まそうとすると、

 

「メンバー全員すべて把握している」状態が維持され、

 

その枠内で、「任意の目的を達する」ようなカラクリが発動されます。

 

そのいろいろな在り方によって、

 

地獄があったり、不平等があったり、暴力的な破壊があったりします。

 

で、「メンバー全員すべて把握している」といっても、

 

そこに変数があると(=把握しきれない要素があると)、

 

「どうなってんのコレ~!」という脅威が出現したりして、

 

色んな複雑だったり強力だったりする操作が必要になり、

 

手持ちのカードがべらぼうに多彩になっていったりします。

 

そういう意味では、

 

「なんかめっちゃ複雑で、大海を操船術で上手くやってる(あるいは上手くやってない)ように見えるけど」

 

「実際は、大きな流れに誰も逆らえない」

 

ある意味「決定論的である」と言える状況になっています。

 

なるほど~つまり、「どうあがこうと無駄」と「がんばればなんとかなる」が同時に両立する世界観ですね。

 

決定論的な世界」を眼前に捉えて、何らかの解釈する「私」や「あなた」も、その枠内から逃れられていない、ということです。

 

ただ、唯一の救いは、

 

その「決定論的な包括領域」は、固定じゃないってことです。

 

ガワ(側)・形式は固定だけど、背景・中身が固定じゃない。

 

なんらかの影響(出所不明の脅威or恵み)が常にやってきている。

 

だ~か~ら~こ~そ~

 

形式にこだわってもしょうも無いと、私は思います。

 

ただ「お前ら全員、形式にこだわるなよ!」と言っているわけではありません。

 

これについて、「誰かが」「どう思っても」それに口出しはしませんが、

 

私は、「形式なんて蝉の幼虫の抜け殻だろうが!」と思っている、という声明発表です。

 

幼虫あってこその、抜け殻なので、

 

幼虫がそう在るならば、形式の「抜け殻」はこうなるよね、

 

あるいは

 

「抜け殻」はこうなら、幼虫はそう在ったんだね、と言えるだけであって、

 

「この抜け殻」にフィットするような幼虫であれよ!っていうのは

 

明らかに時系列的な順序が狂ってます。

 

つまりは

 

「前と同じような幼虫であれよ!」ってことなんですけど、

 

私は時系列的には一人称視点しか持っておらず、俯瞰できていない者なので、こう言っているのですが、

 

包括的世界自体が「なんちゃって包括」であること、

 

つまり、「何も無いところからの影響」は有るって知ってるので、

 

そんなに視野狭窄な考えでもないぞ、と思っています。

 

この日記、自分で書いてても、読んで意味伝わるような表現になってないな(わかりにくい不親切な表現だな)と思いますが、

 

わざとわかりにくく書いてるんじゃなくて、

 

扱う対象が抽象的すぎて、具体例が地球上に無いので、こういう書き方になっています。

 

つまり「なんか(意味不明なこと)ゆってんな」と思ってもらっていいです。

 

でも、これってとても重要なことなので、

 

とりあえず日記に書いています。

 

ふんわりした感じで、お送りしました。

 

おわり