読書再開

トラックゲームばっかりやるのもアレなので、

 

ずっと、置き本していたデジタル書籍を読み始めました。

 

今読んでるのは、千葉雅也さん著の「現代思想入門」です。

 

けっこう一般人向けの作りで、書き方もわかりやすくて、読んでいて楽しいです。

 

ドゥルーズさんの脱構築主義(同一性に差異という対立項を設けて、固い決めつけなどから離脱すること)の考えの紹介の章を読みました。

 

なんか、フランス人の人の思考回路って、「都合いいな」と思いました。

 

哲学者のマルクス・ガブリエルさんも確かフランス人だったと思いますが、

 

基本的に「こういう考えっていいよね」っていう志向なんですよね。

 

「こう考えたら、人生豊かになるよね」みたいな。

 

例えば、ドゥルーズさんのひとつの意見では

 

「コミュニケーション社会の発展においては」

「言論やコミュニケーションはずっと前からすでに金銭に汚染されて腐っているので」

非コミュニケーションの空洞や、断続器を作る必要がある」

 

みたいな事をゆっていて、

 

それに対して、千葉さんは

 

「今(※本書刊行当時)のSNSやメディアがまさにそれで」

「なんかの炎上ネタでツイッターなどで道徳を振りかざして盛り上がり」

「それによってメディアは簡単に金儲けする」

「まさにコミュニケーションが金銭に毒されている」

「そういうビジネスに巻き込まれず、理性的に社会問題と向き合う必要がある」

「そのためにドゥルーズは、非コミュニケーション環境が必要だと言っている」

 

という解説をなさっているのですけど、

 

「なんか、やだなぁ(メディアの商売の巻き込み力がやだなぁ)」

 

っていうのがまずあって。

 

それに対抗というか、突き崩すために、

 

「こういう考えっていいよね」

 

ていう流れなんです。

 

なんか、「戦ってるなぁ」という感じがします。あるいは「防衛戦してるなぁ」でしょうか。

 

私にとっては、「戦うための手段は」「言論ではなく、頭脳(計算機)」なんですよね。

 

頭脳を使って、戦いますが、「言論」は「ただのメモ・防備録」です。

 

この日記も、単に、忘れないように書いてるだけです。忘れないことによって(あとで思い出すことによって)パフォーマンスの精度が上がるからですね。

 

「この考えで戦うんだ!」っていうのは、けっこうやばいと思います。

 

やばいというのは、「戦争の火種つくってんな」という意味でのやばさです。

 

例えば、自分が食べ物を運んでいるアリさんだとして、

 

歩いてたら、目の前に舗装された道路が現れて、そこを自動車がビュンビュン走っているとします。

 

ここで、私(アリ)だったら、

 

「うわぁ、あぶねえな~」と思って、「どうにかして、安全に巣まで帰らなきゃな」と、考えはじめるんですよ。

 

で、「人間の歩行者のすぐ後ろをついて行けば、安全かもな」とかいう法則を見いだしたりします。

 

これが、「頭脳を使って戦う」の図です。言論は「人間の歩行者についていけば安全だ」です。

 

一方、フランス人のドゥルーズさんは、

 

「こんな通行妨害の道路を作るなんて、人間はなんてやつらだ」という不満から始まって、

 

「人間たちは身勝手な自然への介入をする横柄なやつらだ」

 

「人間は、自然の流れを故意にねじ曲げる脅威であり、その脅威を自然の流れに還元させる行為は正当化されうるものだ」

 

「あいつらにわからせて自分たちを防衛しなければいけない」

 

みたいな言論を出したりするんですよ。

 

戦うモード全開ですね。

 

これってつまり、「受動的」か「能動的」の違いとも見ることができるんですけど、

 

言論って、例えば普段仕事で手一杯で、忙しいサラリーマンの人とかも、

 

「専門家がこういう考え方をしている。なるほど、この考えを自分も取り入れよう」

 

みたいに、普及しうるじゃないですか。

 

だから、あんまり能動的な志向を持つ言論を公表すると、その矛を持って戦う兵隊に化すケースがありますよね。

 

それって、なんか、「戦争の匂い」がしてきますよね。

 

私だと、「それ、ちょっと怖いな」と思っちゃうんですけど、

 

けっこう、ファイター気質の人っているもんですね。

 

まぁマルクス・ガブリエルさんの「世界には無数の場がある」みたいな考えだと、

 

なんかマイノリティの居場所も守れるし、どんな場の人でもポジティブになれそうな平和な感じがしますけど、

 

結局、「世界よ、オレの都合の良いようになれよ!」という戦いですよね。

 

私は、世界の在りようとか、自分の都合とは関係なく存在していると思ってます。

 

なぜそうしているかというと、

 

自分本位での見方って、固定されるじゃないですか。

 

私は洋菓子が好きなんですけど(最近は食べてませんが)

 

昨日も、今日も、明日も多分好きなんですよ。

 

そんな私が、自分本位に、固定的に世界の在りようを規定したら、

 

例えば「美味しいいちごのショートケーキが安く買えるようになるべきだ」

 

「いちご農家や、ケーキ職人、そして小売り業者が、ビジネス界だけでなく、宇宙全体にとってもっとも本質的な存在だ」

 

みたいな言論を出し得ますよね。

 

でもこれって、全然、世界の在りようと関係ないじゃないですか。

 

間違ってる言論ってわけじゃないですよ。

 

「あなたはそういう見方をしてるんだね」ってことですけど。

 

それってつまり、ただの利益誘導にしかならないので、

 

洋菓子そこまで好きじゃ無い人にとっては、明らかに的を得てない言論ですよね。

 

そういう無駄な「お客さん固定」が発生するような言論って、

 

あんまり普及させるのって、しょうもないなと思うんですよね。

 

私は「世界は情報の集まりだ」っていう言論を出しましたけど、

 

これ普及したら、あらゆるプレーヤーにとって、まぁまぁ、いい線いくと思うんですよ。

 

お客も固定してないし。すべてを包括しえますから。

 

すべては言い過ぎですね。ごめんなさい間違えました。かなり広範な範囲を包括しえる、でした。

 

地球の大きさって変わってないので、ある程度の広範さが確保できれば、その言論はGOできますね。

 

だから、ちょっと「やってることが違うな」って思っています。

 

でも、ドゥルーズさんの考えはそれはそれとして、尊重する気はあるので、

 

「そういうこと考えてた人がいたんだなぁ」と楽しく読んでいます。

 

次の章は、フーコーさんです。読むのが楽しみです。

 

おわり