イスラエル・パレスチナ問題 余談

イスラエルパレスチナ戦争が始まったときに、「この問題はとても複雑だから難しい」という所感を述べる知識人の方を数人目にしました。

 

あの地域の歴史が、色んな立場の組織がぐちゃぐちゃ混み合っているというのは私もなんとなくすんなり事実として納得できましたが、それに対する言論の方針を明確にしない姿勢に「おやっ」と思いました。

 

やんわり批判をしますが、この日記では別に批判がしたいわけではないので、それは後述します。

 

私は知識人が「複雑で難しいから」と言ってアウトプットを明確に出さない第一の動機は「責任回避による保身」だと思い込んでいますが、実際にはどうなのかよくわかりません。

 

パレスチナ地方はたしかに複雑でしょう。ただ、状況が複雑ではない地域なんて地球上にあるんでしょうか。複雑といえばそこら中複雑であり、月面も複雑でしょう。

 

この「複雑で難しい」表現を最初に見たのが、NHKの報道のテロップだったと記憶しています。

 

NHKのテロップにそう出るということは、「一般人はみんなそう思っておけばいい」のシグナルだと解釈できると思います。

 

なので、ある知識人の人が紋切り型に同じ表現をしていたとしても、その個人に問題があるというわけではありません。

 

個人に問題はないが、個人の責任は別に存在しています。

 

私としては、問題が複雑であるならば、「その複雑性に見合った時間と手間をかけてでも、きちんと説明して欲しい」という期待をしています。

 

「こうこうこのように、とても複雑であるが、総じて私としてはこう思います」ということは、言えるはずなんですよね。

 

「こうこうこのように、とても複雑なので、私の能力では計算して判断することができません」ならギリギリセーフだと思います。

 

ただ、知識人であるならば、それを言わない職業的プライドを持つのが自然かなと思います。

 

なぜパレスチナの問題になると舌鋒が鈍くなるのか?それはおそらくユダヤが絡んでいるからではないでしょうか。

 

社会的に立場の在る知識人が、「順ユダヤ」あるいは「反ユダヤ」の旗を明確に掲げると、大きな政治的な意味をもってしまう。「だからリスクが高いしそれはできない」。

 

うーん、それは事実なんでしょうけど、公平に見ると「ビビリすぎ」ですね。

 

ちなみに私は「順ユダヤ」でも「反ユダヤ」でもありません。ユダヤ人はアメリカとかどっかにいる隣人だと思っています。

 

できれば仲良くできればいいが、利害対立になるならまぁしょうがないかな、くらいに思っています。

 

もし私がロケット砲を所持していたとして、「反ユダヤ」の発言をしたならば、それはユダヤ人から危険視され、何らかのアタックが来ることも想定できるでしょう。

 

しかし、私はロケット砲を持っていない、ただの「ブログで言論発表」してるだけなので、ユダヤ人にとっても安全だとわかっています。

 

何が言いたいかというと、武器を所持してでの利害対立はまずい争いが実際に起こるが、言論空間における利害対立は、平和を維持できるセーフティゾーンだということです。

 

言論空間で、利害対立する立場同士が、相まみえたら、どうなるでしょうか?

 

異なる意見を持ち、それぞれ相手の意見が気に入らないのであれば、思う存分「議論」すればいいんじゃないでしょうか。とても平和で健全な状態です。

 

私はこの日記を見たユダヤ人が「こいつ気に入らねえ」と反論してきたとしても、それはそれで面白そうなのでそよ風のように向かい入れるつもりです。

 

どんな深い意見の対立も、議論することによって、平和的にお互いに建設的にコンクルージョンを得ることができる自信があるからです。

 

個人的には、「自分とかなりギャップがある相手の見ている世界を知ることができる」という興味があります。「宇宙人と話して知ってみたい」と同じイメージです。

 

だから、例えユダヤ周りがセンシティブで、政治的インパクトが大きいとしても、「言論空間の中であるならば」対立は怖くないのです。

 

批判が来たなら、それを公平な目でジャッジして、相手を説得するなり、自分が反省して意見を改めると表明したり、するだけで秩序は何も乱れません。

 

一般的なメジャーな人の感覚として「利害対立を極端に恐れる」「しかも相手が強者ならばなおさら絶対的タブー」みたいな印象を受けますが、

 

私は利害対立というものをあまり怖がっていないし、それが自然だと思っています。

 

心情や考えの異なる個体が集まれば、それぞれ自分の思うように動きますから、利害対立なんて構造的にいくらでも発生します。

 

利害対立があるのが普通なんです。そして、その風向きは天気のようにコロコロ変わり得ます。だから対立は「そよ風」なんです。

 

利害対立して、「やっかいな相手、組織を敵に回したら損害が出そうだ」という判断はあってもいいと思うし自由なんですけど、

 

例えば偉い相手と対立しても「対立してるのか、じゃあそれと対峙しようか」と通常モードで対応すればいいだけです。

 

何も相手を殲滅するわけじゃないんですから。対立しても平和は維持されるという確信があるから、何も怖くありません。

 

ただ、びびってる人でも、例えば大学の教授とか、潜在的に教育の場において影響力のある人だったら、「うかつな事は言えないし、言論空間でも自由に発信できない」というのは理解できます。

 

明確に旗を揚げたら、その時点で(重くて嫌な)責任が伴いますからね。

 

私は個人でブログを書いているだけなので、潜在的な責任は小さいからほぼ好き勝手に書いてますが、私がもし大学教員であっても、やはり好き勝手に発信するでしょうね。

 

それで何か問題が起こったら、「じゃあ議論していこうか」と「やってやるか」とモチベーションを上げて楽しく取り組むと思います。

 

せっかくの平和装置である「言論空間」で、怯え退くのは、もったいないなと思います。