主体性-やる・やらないの意味

今回は「主体性-やる・やらないの意味」というコラムです。

 

私の生きてる環境では、「主体性がない」人ってけっこう見るんですけど、

 

一方で、「主体性を持つことが大事だ」っていう言説もありますよね。

 

で、「なんで主体性が大事なのか」という意味の解像度を上げる目的でこれを書いています。

 

まず、人は何かの行動の「やる/やらない」決めるとき、

 

・これは得だから「やる」とか

・これをやると危ないから「やらない」とか

・やりたいけど、失敗しそうだから「やらない」とか

・やりたくないけど、やらないと攻撃されるから「やってるふりをする」とか

 

いろいろあると思いますが、

 

これらって、ニュートラルな立場であるなら、どうしようと自由なんですよ。

 

降りかかる火の粉を払おうと、払うまいと、他人におっかぶせようと、自由です。

 

ただ、この日記の文脈上の注目ポイントは、

 

「その判断って、全部あなた基準だよね」ってことです。

 

「あなた基準」とは「世界はわたしのためにある」ってことです。

 

私は、けっこう自己中ですけど、「世界はわたしのためにある」とは露ほども思ってないです。

 

だって、「気づいたら地球に放り込まれて生きてた」だけで、

 

むしろ

 

「なんでこんな一方的に生きることを強制されてんの?」

 

「誰がこれ仕掛けてんの?」

 

「地球環境どころか、自分の身体さえ、私はレシピも知らないし、作れないよ」

 

「なにこれ?」

 

って感じなんですよ。おそらく生きてる人は、同じ感覚でしょう。

 

で、この状況下で、

 

「世界はわたしのためにある」って、発想しにくいですよね。

 

要するに、生きてる環境が辛すぎて、売上げ立てるために「世界はわたしのためにある」って思わなきゃ「しのげない」「やってられない」ってことですよね。

 

で、ここで主体性の重要性が出てくるんですけど、

 

「なんか他者都合で、一方的に生きることを強制されているようだ」という認識があって、

 

「じゃあこの生にどういう意味があるのかっていうと」

 

私の思い込んでる答えは、「なんか、機能性を求められているんだなぁ」ってことです。

 

例えば「人間」と「洗濯機(の部品)」の関係のような。

 

「人間が一方的に洗濯機を使役して、洗濯機はがんばって動く」

 

そしたら「人間」は「うれしい」ですよね。服(洗濯物)が清潔になるから。

 

一方、洗濯機は、「ハァ、ハァ!きっついな~」って感じですよね。

 

一応、コンセントから電気の「パワー」はもらっているけど、きついもんはきつい。

 

ここでのポイントは、「わたし」は「使われる側」ってことです。

 

使われて、機能を生むことによって、生かされている。

 

だから「世界はわたしのためにある」じゃないんですよ。私の想像上では、ですよ?

 

で、洗濯機側が常に求められることがあるんです。

 

それは「ちゃんと動くの?どうなの?」ていう問いに対して答えるということです。

 

「きみは動くの?動かないの?」

 

「どうするの?」っていう使用者からの問いが、ずっと絶え間なく、永遠に投げかけられているんです。

 

そのエブリディ、エブリタイムの問いに対して、

 

「やります」又は、「やりません」っていう情報を明確にすることが

 

「主体性」の重要な意味ってことです。

 

「やります、でも、できません」

 

でもいいんですよ。「やるってことなんだから」。

 

「できないけど、やります」

 

「かなりきつくて、本心は死ぬほどやりたくないですけど、やります」

 

「上手くいったらメリットありそうなので、やります」

 

「あなた主体の前置き」は、使用者にとってはどうでもいいことです。

 

「お前は、やるのか?やらないのか?」「どっちなんだい?」っていう

 

ことに対して、あなたという「窓口」が、きちんと応対しなきゃいけないってことです。

 

で、その「やる」「やらない」の意志は、実際の「行動」によって示すという流れです。

 

「やります」って答えといて、「逃げまくってる」っていう「嘘」は、混乱を招くだけですよ。

 

そういう嘘ついても「こいつ機能してないな」って使用者は思うだけです。「この洗濯機、壊れかけてんな」って。

 

だから、「主体性」が大事なんです。

 

ちゃんと自分(洗濯機)の窓口としての機能ですね。

 

だから主体性を持って、「わたしはこれをやります」というのが大事なんです。

 

もちろん「やりません」でも全く問題はありません。

 

使用者は「あ、あなたやらないのね、はいわかりました」って言って、

 

あたなを消去するか、別の機能を期待するか、ってだけですから。

 

基本的に、存在っていう概念でいうと、

 

「使用される側は」

 

「やります」を言い続けた者のみ、存在し続けるってことになります。

 

でも

 

「そもそも、わたしは存在させてくれって頼んだ覚えは無いから」

 

「消えてもいいよ」

 

「わたしはやりません」

 

っていうのでも、全く問題ないんですよ。

 

「やらない」ってはっきりするから。

 

使用者は「それなら、こうだな」って操作するだけです。

 

で、私は「洗濯機やります」って言い続けてるんですよ。

 

しんどいのは嫌だけど、「やるかやらないか」で言うと「やる」ですね。

 

十年後も「やる」と言ってるかどうかわからないですけど。

 

そういうことなので

 

「主体性を持ったら、責任おっかぶされて苦しむからやだなぁ」とかいろいろ事情はあるかもしれませんが、

 

どういう知恵を回そうといいんですけど、

 

「やる」のか「やらないのか」

 

常にはっきりしといた方が、洗濯機としては正常動作ですねってことです。

 

ご参考になれば幸いです。

 

おわり