日本は明治維新前からすでに、西洋列強の植民地になることを恐れて、国力(経済力・軍事力)をアップさせようというムーブメントがありましたが、
実際にやったのは、たぶん恐ろしい列強のコピーなんですよね。
外国に「勝とう」ではなくて、
「肩を並べよう」っていう、高望みしないスタイル。
中間目標というのは、トータルデザイン(総合的戦略)の上に、成り立つものですから、
当時の日本の総合的戦略っていうのは、「西洋が乗ってるレールに乗ろう」っていう、オリジナリティがあんまりない、「やる気のない」戦略の選択に見えます。
「だって、日本は死ぬほど貧乏なんだから、そんなに高い目標持つのは無謀じゃん」っていう発想がありえると思いますが、
「戦略」の文脈での目標っていうのは「無理かどうか」「実現が現実的かどうか」っていう話の「以前」に決まるものなんです。
例えば私で言うと、
「世界の一番外側を確認する」を中間目標にしているんです。
これは、不完全ながら達成されているので、クリアしています。
で、人間として地球環境において、「世界の一番外側を確認する」って、無理じゃないですか。
できるわけがない。
できるわけないけど、なぜその無理な目標を設定したかというと、
「情報を獲ったり、操ったりして、戦う」という戦略を選択していたからです。
できるできない以前に、
「この戦略でGOしてる以上」
「条件『世界の一番外側を確認する』を満たさなければ、お話にならない」
っていう状況下において、中間目標が決まってくるわけです。
で、日本帝国の例に戻ると、
中間目標は「西洋が乗ってるレールに自分も乗ろう」ですよね。
これってどういう戦略かっていうと、
「コピー」です。
例えば、「猿さん」が、リンゴをたくさん獲ることができている。
それを見た「犬さん」が、こう思う。
「猿さんのマネをすれば、じぶんもたくさんのリンゴにありつけそうだぞ」
っていう。
これって、なんか合理的なようで、実は問題があるんです。
「じゃあ仮に」「猿さんのマネをして、犬さんがリンゴにありつけました」
としましょう。
「で、その後、犬さんはどうするの?」という問題が出てきます。
猿さんのマネを、ずっと続けるんでしょうか?
「猿さんが仲間のノミを掃除してあげてたら」
「犬さんも、仲間のノミ掃除を始めるんですか?」
「お前、犬なのに?」
っていう
犬さんが猿さんのマネするっつっても、「お前猿になりたいんか?」ってなりますよね。
これって戦略として、へぼすぎるんですよ。時間経過に耐えられない。
だから日本帝国も、やるべきことは
「西洋がどうだろうか日本には関係ねぇよ」
「日本がどういう戦略取っていくのか、どうしたいのか、それが問題なんだ」
というスタートラインに着くことが正着になります。
「日本ならではの戦略」ですね。
だって、西洋人と、考え方かなり違うし、日本の村社会とか、明らかに自由がないじゃないですか。
犬さんが猿さんマネして、どうすんのって思います。
当時の日本人が「自分たち『犬』は劣っているんだ、『猿』が正解なんだ」っていう発想を持っていたかも知れないですね。
これは自己否定、つまりは自殺です。
自分たちの遺伝子を信じ切れてなかった、だから他人種のコピーに走った。
これじゃあ、「西洋の動き」関係なく、勝てませんねってなるのです。
「西洋が牙向いて襲ってくるから、危機だ」
じゃなくて、
「一旦その恐怖の対象を、『ただの置物』だと思って」、自国単体で、地球環境で生き抜くにはどうすればいいのか?っていう戦略が必要なんです。
何も戦略がないまま、謎のマネマネ競争を走り出すんじゃ無くて、
戦略きっちり選んでから、スタートラインにつく、その手順を丁寧に踏んだ方がいいですね。
なぜかというと「自滅」してるようでは、お話にならない、スタートラインに着ける状態ではないからです。
きっちり競争にエントリー申し込んで、参加できる状況に持って行ってから、
スタートラインに着く、そんで競争が始まるっていうゲームです。
まぁそもそも
人間の生でさえも、「気づいたら少年少女だった」「何の準備もなくすでにスタートの号砲が鳴った後だった」
っていう状況なので、
正しい手順を踏めないっていうのはありえます。無理は無いですね。
この日記の情報私が出して、見た人はどうするのか、それはご自由ですけど、
私は、戦略なしでは、まったく戦えません。
戦略なしで、いけるケースもあるかもしれませんが、けっこう厳しいと思います。
野生動物だって、皆それぞれ生存戦略を持っています。
環境に適合できたら、その種は生き残る。適合できなければ、消えてしまう。
私も、もし原点が「消えてもいい」だと、生存競争がんばれないかもしれません。
おわり