今回のテーマは「凸凹論」ということで、論ってほど大層なアウトプットじゃないのですけど、ひとつのアイディアです。
世界は、非常に強い水圧のかかっている「深海」環境みたいなもので、
わずかでも穴が穿たれると、ぺしゃんこになってしまいます。
だから、全方位の圧力で、存在は常に「試されている」状態になります。
「安部晋三さんが相当長い期間、キングの地位を占め、権力を上手く振るっているように見えた」
それを観客が見て、
「あぁ、あれが正解なんだな」
「少なくとも、限りなく正解に近いから、それだけの地位と権力を与えられたんだな」
という評価がありえます。
しかし、ルールとしては「強い圧力環境下で『小さな穴』になっていないことを常に試されている」というものがあるので(これは私の勝手な想像ですよ?)
「試されている」とは言い換えると、「穴認定」されるような誘導に常に晒されている、ということです。
つまり、「オレはここまでの高みに達したから、安泰だろう」とか
「少なくとも、オレは、オレより劣っている連中よりマシって意味で、保身が達成されるだろう」
とか、そういうシンプルな「競争」ではないんですよ。
シンプルな競争はあるのですけど、その外側に、包括的なルールとして「常に試されている」があるということです。
その辺にいる太ったアマガエルも、常に試されているし、
ホームレスのおじさんも、常に試されているのです。
「穴になっているなら、対処しなきゃな」「穴じゃないなら、維持・続行だ」
そういう意志決定があります。
なので「『穴』は劣っているから、ダメだよ」っていう以前に、
「穴あかすことは」「全体を危険にさらす行為」だってことです。
もしも「全体が危険にさらされたら」、可能な限り「内々で」対処のプログラムが走りますが、
はっきりいって、その「コケ」が、かなりの攻撃を受ける「隙」になりえるので、
「みんなのために」「穴にならないようにがんばりましょう」ということを言いたいです。
で、ここでやっとこさ「凸凹論」に入りますが、
立場が上にいけばいくほど、「コイツ穴かな?審査」は厳しくなっていきますから、
「針の穴を通すコントロールで、自分を洗練させる必要があります」
その状況下において、「じゃあ限りなく自分を磨いていこう」「正解に限りなく近づいていこう」
っていう素直な優等生発想もありえるんですけど、
実は、具体的に「針の穴を通すコントロールで自分を磨く」ためのメソッドとは、そういう優等生志向ではありません。
実際にそれを実現するためには、
自分を「凸」とした場合に、「その他の凹」とのハマり具合が非常に重要になってきます。
つまり、自分の在り方の正解とは、その他の存在の在り方によって、変動するということです。
例えば、私はZ世代のことを「もやしっ子連合」だと思っていますが、
「オレの方が総合的に優れているんだから、Z世代に対して、『オレ流』をたたき込むべきだな」
とは、「全く思っていません」。
結局、日本社会というひとつの架空の括り(凸凹論の説明のためだけに存在しない架空の括りを想定しています)において、
「穴にならない」という条件を満たすためには、
Z世代という「凹」に対して、自分はどういう「凸」であれば、「全体に穴が開かないようになるかな」
という発想で、自分の在り方を決定するというやり方が正解です。
「自分が優等生だから合格だな」「もっと優等生になったらもっと合格だな」
という発想では、「こいつ穴かな?審査」に対応できないと思います。
ここまでのことを踏まえた上で、「いや、おれは最優等生を目指す」というチャレンジをするというなら尊重しますが、「失敗しないでほしいな」と思います。
「がんばってください」というよりも「ミスしないでくださいね」ということです。
なので「こいつ穴かな?審査」に対応するためには(というか全体に穴を開けないためには)
まず、
①「自分以外その他」=「凹」を把握する
次に
②全体に穴が開かないように、「自分」=「凸」を選択する。
③その「凸」になるように、がんばる
※この①~③を、常時リアルタイムで、現在進行形で、維持・続行する
っていうのが正しい手順になります。
ただ、ここで問題なのは、
「自分以外その他」=「凹」の在りようなんて、わからないですよね。
地球上だけってだけでも、把握しきれません。
アパートの隣の部屋の住人がどんな人なのかもわからないです。
なので、普通の人の感覚では、「そんなの人間にできるわけねえだろ」となります。
私も、「これ無理あるな。少なくとも現状では、不可能だわ」と思っています。
しかし、ここでも常識を壊しますけど、
「そんなの人間にできるわけねえだろ」=「じゃあオレはやらなくていいってことだな」
ていう理路は、架空のフィクションであり、現実には通用しません。
「無理そうなことでも、やるっきゃない」
っていうのはあり得ますし、その姿勢が重要です。
私の父を見てても、ある種の現実を見ていない側面があり、「都合の良いフィクションの世界観を信仰している」面があります。
その根底には
「自分にはどうにもできない、絶望しちゃうような状況は、あってほしくない」
→「そんな状況は都合が悪いから、あるべきではない」
→「そのような状況は、存在しない(断定)」
という恣意的な処理が脳内で走っています。
正解は、
「できなくても、やってみよう」の姿勢を持とう、です。
できるかどうか以前に、「全体に穴開けちゃいけない」のは、動かせない事実なので、
「やるしかない」んですよ。
だから「できないことも、やってみよう」が正解になるんです。
普通の人の発想だと「できないなら」「やっても無駄じゃん」「失敗したら悲しいし、そんな無駄骨しょうもないじゃん」
っていうのは自然な発想なんですけど、
「できないけど、やってみよう」が正解だと、私は思っています。思っていますというか、そう思わざるをえない状況だということです。
「できないけど、やってみよう」は無理あるかもしれませんが、
これはギリギリの譲歩なんですけど、
「できないことをやってみて、できなかった(できていない)」
それでもいいよってことです。やさしいですね。
このバランス感覚は、このバランスによって今この日記を書いている私は、
けっこう「こいつ穴かも?審査」において、綱渡ってますよ。
ギリギリの譲歩を今書いてるんです。
自分「できないことをやってみて、できていない」
全体「それでもいいよ!」
ってことです。
「なんで良いかっていうと」「他の存在が、ケツ拭いてくれるから」です。
「内々の処理で」「なんとかカバーする」からです。
ケツ拭いてくれることが期待できるからといって、常に自分のケツを差し出すようにはなってほしくないということです。
そのために
①「凹を把握(想定)して」(見えないものを見る必要も出てくるでしょう)
②「それに適合する凸」となり(これもある種の演算が必要です)
③「全体に穴開けないようにする」
④そのために「できないこと(凹を把握すること)(適した凸になること)も、やってみよう」っていう姿勢を持つ
が重要ですよ、という
一種の私の「アイディア」です。
はっきり言って、これは真実とは限りませんよ。
ただ、私は「そう見ています」(けっこうな確信を持って)。
どのように解釈されても、ご自由にしてください。
おわり