大体生きてると、時間が流れる感覚とか、一人称視点ですけど、
それだけだと、周りが見えなくて、トラブったりしがちです。
だから社会生活における定石としては、
「自分目線ではこう感じてるけど」
「他者目線では私はどう見えているだろうか?」
というのが重要になったりします。
私なんかは、まぁ、どうでもいい変なトラブルを避けたいっていうのもあるんですけど、
世界って、視点の位置次第で、大分景色が変わってくるんですよね。
その、景色の変わり具合が、面白くて、色んな人の視点とか、あるいは道ばたの小石の視点とか、いろいろ想像して楽しんでいます。
これって、戦いにも活かせるんです。
解釈の引き出しが多くなるからです。
例えば、外で、自転車で危ない走行をした幼児を、母親がめっちゃ叱ったりしてる場面を見たときに、
色んな解釈があるんですよね。
<Aパターン>
「この母親。子供に八つ当たりしちゃって、きっと家事とか仕事とか忙しくてキャパ越えしてんだろうな」
とか
<Bパターン>
「本当に我が子の命を守りたい愛情があるからこそ、必死でわかってもらおうと厳しく接してるんだな」
とか
どっちの解釈が正しいか、とかは問題ではないんです。
真実は、Aパターンが正解かもしれないし、Bパターンが正解かもしれないし、
AパターンとBパターンが同時に両立している(両方正解)かもしれないし、
A・Bどっちも外れのCパターンかもしれない
<Cパターン>
「あの人、あの子の母親じゃなくて、道交法の知識にこだわることで謎のアイディンティティを確立している近所の名物おばさんだな」
と解釈してもいいんです。
真実なんて、基本的に、わかんないんですよ。
でも、私やあなたが、「そのように解釈するならば」「そう見えたならば」
それが、「自分の視点(唯一の視点)からの見え方である」というのが事実であるというのも確かなことです。これは自分のことなので事実だと言い切れます。
だから、私は、ひとつの現象を見るのでも、いろんな解釈ができるということを利用して、
「自分が楽しいと思う、好きな解釈をしている」んです。
そうすると、「嫌な現象でも」「視点の角度を変えて」「解釈を変えて」「ポジティブになれる」「面白がれる」
よって「利益を上げられる」
「だから、その力で十分に戦える」という流れです。
これがスピードと機動力を活かしたハエ型の戦い方のひとつです。
でも、「そんなのできないし、やろうとも思わないよ」って人も多くいると思います。
それって、例えば
「ある夫が、家に届いたDMとかの郵便物を、リビングの机に投げるように放って、『バサッ』とぶっきらぼうな音を出した」という現象の場合。
奥さんはそれを見て、「音が大きくてビクッとして怖かった。私に対して、なんの配慮もない、愛情が感じられない気がした」
と思ったそうです。(このネタは、昔、週刊誌とかに書いてあった実例です)
この奥さんは「私が音で怖かったし、愛されていないと直感した」
(↓ここからは私のフィクションです)
「その解釈を私はした。それがありのままの私」
「そんなありのままの私を、許して、愛して欲しい」
という、解釈の「ロック(固定)」が起こってるんだと思います。
あとは男性版だと、
「性欲のままに、女性に不愉快な思いをさせても平気なオレ」
「そんなオレでも、許してもらえることを確かめたい」
「許してくれる世界であってほしい」
とか。
まぁその願望は別にいいと思うんですけど、
それやっちゃうと、解釈にロックがかかって、
「そんなありのままの私、そんなありのままのオレの解釈」しか、ありえないってなりますよね。
これって身動きとれないんですよ。
身動きが取れないと、じゃあ「他力の流れに乗るっきゃ無いな」。
「雰囲気に流されるしかないな、安全な流れに乗るしかないな」って戦略しか取りようがなくなってしまう。
もちろん、安全な流れを見極めて、選んで行ける人は強いですよ。
でもそこまで強くない人は、
「流されちゃいけない流れに乗っちゃって」「騙されて」「奈落へGO」になるケースにハマるという構図が私には見えてるので、
もうちょっと、解釈を選んで、身動き取れた方が安全なんだけどなぁと独りごちているのが今日の日記です。
私も、朝起きるときはめっちゃ頭が眠気でボヤ~ってしてて、
「二度寝への誘いの流れ」に完全に乗っちゃって、
そのまま「スヤァ・・・」となるのを何回も経験してるんですけど、
「あぁ、これが流れに乗るってことかぁ」って思って
「こりゃ確かに抗えないな」と納得したのですが、
「でも、それじゃまずいよな」「朝にちゃんと起きたいな」と思って、
「意志の力で、6時30分の目覚ましで、がっちり起きるぞ!」と気合いを入れたりしています。
とりあえず、「色んな解釈をしてみて」「どのように見える世界が変わるのか」
それによって「ありのままの自分」がどれだけ否定されうるのか、あるいは肯定したままできるのか、とか
試しにやってみると、良い気づきがあるかもしれません。