恐ろしいもの・・・例えば圧倒的な暴力とか、身動きできないように縛った上で罠に嵌めるとか、
誰だって怖いと思うのは正常で、私もちょっと怖くてビビっちゃいます。
ただ、客観的に見ると、単なる情報の色彩でしかないので、
あんまりそれに対面して、付き合って、抱いて、流される(行動パターンを固定される)必要がないんですよね。
雨上がりの空にかかる虹の中の、「紫色」が怖いっつったって、
「いや、虹の中に紫色がある(明らかにそう見える)んだから、それをどうこうする必要ないじゃん」
というのが、私の世界観です。
ただ、「紫色が怖い」っていう感受性も、またひとつの真実(その人の中では確かな真実)であるっていうのは否定しません。
私がそこで言及しているのは、「そのように怖いと思うことの可否」じゃなくて、「怖いと思った後、どうするの?」という問いかけです。
「紫色から距離を取って逃げよう」とか
「紫色を攻撃して、発色できないくらいに痛めつけよう」とか
なんか、「素朴」で自然な感じがするのですが、
客観的に見れば、
「虹に背を向けてダッシュ」だったり
「虹に向かって石投げる」だったり
やってることがなんか「振り回されてる」感がいっぱいに見えます。
「虹が虹として在る」っていうのは別にいいじゃん、あんまり気にしてもしょうがないし、それよりも
「自分の問題をこなしていこう」って方が明らかに優先度高いですよね。
虹色が紫色を発色している。
それによって私は恐怖を感じている。
★それは「紫色」のせいだ!←「というYOU(虹)&I(私)の他責発想」
「紫色をなんとかせなあかん」
「紫色さえなんとかすれば、安心できる」
っていうのは合理的ではあるのですけど、
別の道、方向性として、
・「なんで私は紫色が怖いのだろう?」と深掘りしてみたり、
・「虹に紫色が出るメカニズムは何なんだろう?」と研究してみたり、
・そうやって都合の悪い対象を、「ナシ」にしていって、それを突き詰めていった先には何があるんだろう?その理想は、天国のような幸せMAXな世界?
→
私の行動は「幸せMAXな天国」を目指しているけど、それが私の本当の望みで合ってるのか?
とか、「とりあえず紫色の存在を認めつつ」「がんばる」っていう道もありますよね。
「怖い」の前に、「やるべきこと」が優先されるような状況ってあると思うんですよ。
「できれば何もがんばりたくない」
「ただただ、幸せMAXになりたい」
「それを実現するために他者がどんだけ苦しんで犠牲になってもいいよ」
って
マジで本心で思ってる人っているんでしょうか。
もし「いる」っていうなら、私もすぐ却下しませんが。
「あぁ、そういう人っているんだ」って驚きますね。
そういう人がいても良いとは思いますけど、シンプルに迷惑だなって思います。
ただ、実際に地球上ではそんな天国状態ってあまり実現しないですから、
そういう意志も、いわゆる、「エンジン機構」なんだろうなと解釈します。
エンジンは、車がぶっこわれてスクラップになるまで、火を吹いて動き続けるのみ。
となると、私の解釈としては、
「あぁ、車が廃車になるまで、そうやって動き続けるんだなぁ」
とありのままに受け取るだけです。
動きを止めるそのときまで、動き続けられたらいいですね。
そっから(自分がただの部品じゃないと思うなら)逃げ出したいのであれば、
どのようにエンジン吹かすか、そのやり方、「How to do」を追求するのをおすすめします。
「エンジン性能あげてみよう」とか
「環境に優しい燃焼しよう」とかですね。
工夫とチャレンジです。
それに着手すると、自動的に「部品軸」からの脱却となります。
もしも「もう部品として使い倒されるのやだ」と思っているのであれば、そういう方法もあるということです。
思っていないのであれば、今のままで問題ないでしょう。
終わりまで続行しようじゃありませんか。
おわり