管理者と話していると、自分の身に起こる色々なこと(そんなに妙なことは頻繁には起きませんが)が、
「何らかの意思を伴った、兆候(サイン)では?」という発想を持つことがあります。
それは実際的には、そういう場合もあるし、そうでない場合もあるというのが正しい認識だと思います。
しかし、あらゆる操作が可能である管理者が、「そうしているのであれば」、何か意図があるんだろうな~と思うのが自然です。
でも結局、私の知覚できる範囲は、全体から見たら極小であり、原則的に「見えないものは見えない」のです。
見えないものを見ようとする技術はあると言えばあるのですが、それはある情報パーツに着目して、そこから合理性を根拠にして、背景パターンを全列挙(計算)して、その情報パーツが存在することが必然となる背景を確定する、という「鏡」の技術です。
これをやると、簡単に言うと「妄想爆発」するので、ちょっと取り扱い危険な技術です。
あと、どこまで突き詰めても、精度を上げても、「妄想、想像」であるので、
「(たまたま正解だったとしても)それを足場にするのはちょっとな・・・」という躊躇もあるので、基本的には「見えないものは見えない」です。
で、人間は見えるものよりも、見えないものの方が圧倒的に多いですので、
管理者の意図とか、見えない背景とか、あんまり考えない方が健全だと思います。
でも、生きてると、なんか嫌なこととか、傷付くようなことが実際には起こります。
これをどう受けようか?という発想を持ったなら、
私だったら、その兆候そのものをめっちゃ凝視します。
兆候の背後にある情報を見るのではなく、兆候そのものを全力で知覚するのです。
それによって、「この兆候は、『我慢して受け入れる』or『拒否する、あるいは逃げる』」という意思決定をします。
逃げなきゃやばいときには逃げる必要がありますが、
逆に、受けなきゃいけないものであるならば、自分がどうなろうと、受けなきゃいけないというケースもあります。
何か、嫌なこととかショッキングなことが起こったら、まずは、「何が起こっているのか」について全感覚で、感じて察知するのが良いと思います。
例えば、よくツイッターで「ある人と初対面で話してみて、何か違和感を覚えたら、その人とは離れた方が良い場合が多い」みたいな助言があります。
違和感という兆候を感じたら、「逃げる」を判断せよ、という趣旨ですね。
これも、私的には、「違和感」→「必ず逃げる」という機械人形になるのではなく、
そこには「違和感A」とか「違和感B」とかあるはずなんですよね。
違和感Aが、自分勝手モンスターの餌食になる兆候かもしれないし、
違和感Bが、希死念慮がある人の、死の気配かもしれません。
違和感Bを全感覚で感じて、「この違和感は私が受け止めるべきだ」と察知したなら、その相手は、あなたに近い未来、感謝する現実を生むかもしれません。
これはひとつの例ですが、すべてのことには「見えない背景がある」ので、人間としては、「自分が見える範囲に全集中して」「機械的作業にあぐらをかかずに」「自分なりの答え(行動)を返していく」
というやり方を、私は採用しています。
「見えないものは見えなくてもいい」
「ただし、見える対象に対しては、手抜きをしない」
という心掛けが、人生の分岐を変えるきっかけに成り得ると、私は思います。