イスラエル・パレスチナ戦争 その⑨

イスラエルの内面についての洞察と、秩序の起源について私の考えを書こうと思います。

 

まず、普通に平和に生きていれば、

 

「殺されたくない(自分が嫌だし家族も守れなくなる)」

「他人の基本的人権を蹂躙する行為は許されざる行為だ」

 

という価値観を持つことは当然であり、是だと思います。

 

しかし、外的要因によっては、そういう価値観を持てない状況というのは、ありえるということを知っておいた方がいいと思います。

 

例えば、本件のイスラエル人については、古くから他者からの虐げやホロコーストによる大量虐殺を歴史的な経験として持っています。

 

私は「イスラエル人が不憫で可哀想だ」という趣旨でこれを書いているのではありません。

 

「どういうメカニズムで、イスラエル人の価値観が形成されているのか」という点について自分なりに思うところを書いています。世界中の人がイスラエル人について理解を深めることが、この争いを氷解させるための必要条件だと思っているからです。

 

一般的には、学校や職場で嫌なことはいくらでもあると思います。安心な場所でなければいけない家庭内においてもひどい目にあっている幼児もいます。

 

そういう苦難を皆経験して、それでもなお、最後の砦の「根っこ」は良い方向を目指し、負けずに生きていこうという人は大勢いるでしょう。

 

そういう姿勢は、私は肯定するし、賞賛に値することだと思っています。

 

その苦労があるからこそ、「イスラエル人の苦しみも、本人たちが乗り越えるべきだ(私がそうしているように)」と思うのは自然なことです。

 

しかし、ここで事実を述べると、前向きな一般人の中にも、その苦しみに押しつぶされ、「本当は生きたかったのに」絶望し涙を流しながら自ら死を選ぶ人というのは、存在します。

 

何が言いたいかというと、人間の忍耐には「限界ライン」があるのです。

 

そのラインには先天的・後天的要素により個人差がありますが、断言できることは、限界ラインを大きく超えた苦しみを与えれば、人間は必ず100%潰れます。

 

イスラエル人の抱えた苦しみ、あるいは現在背負っている苦しみというものは、おそらく、その限界ラインをはみ出してた(いる)。

 

自殺もしない、うつ病も発症していない一般人の苦労のレベルを大きく上回る、「たがの外れた傷(トラウマ)」を負っている可能性が高いと思います。

 

でも、テレビに映るイスラエルのネタニヤフ首相や、軍の報道官などは、冷静に、力強い意志を宿して、「平気そうに」見えます。

 

「本人が苦労してても、まだ大丈夫そうなら、平均より強い人なんだよ。もっとがんばれるでしょ」

 

ここにマジックがあって、なぜトラウマを負っているのに、平気そうなのか?

 

結論から言うと、トラウマを背負うことは、イスラエル人にとって、全く平気ではないと思います。かなり危険な水準に達している。

 

しかし、彼らは「その度を超えたトラウマを背負うこと」=「諦めずに生き抜くこと」を選んだのです。

 

#これは余談ですが、この生きることを諦めないというのは、人間でも、人間以外でも存在する者すべてにとって共通の重要ポイントになるということを知っておいて損はないです。

 

話を戻すと、イスラエル人の、その諦めずに、傷を背負って生きようとする姿勢を私は尊敬します。

 

しかし、トラウマを背負うにしても、限界を超えている傷は、「精神物理的に、不可能」です。

 

では何が起こっているのか?

 

彼らの頭の中では、半自動的に「我々の負った傷は、ささいなものだ」という理解を持つようになります。

 

振り返って、彼らの負った傷を想像してください。

 

ホロコーストではナチスによって、同胞数百万人が物のような扱いで殺され、存在を否定され、仲間内同士で自分たちの殺処分作業を担わされるということもされています。

 

彼らの理性では「これ」が「ささいなものだ」という認識を、持っているんです。「そういうこともあるよね」と。

 

イスラエル人は、パレスチナに対して入植などのひどい虐殺や、今回の戦争でも、一般市民を殺害しまくっているので、「パレスチナ人の命」に対して、「ささいなものだ」と思っているのは、すぐにわかると思います。

 

しかし、見逃してはいけないのは、彼らは、「自分たちの命さえも」ささいなものだ、と理性が言い聞かせているのです。

 

そうしないと、「トラウマを背負いきれずに潰れてしまうから」「そのトラウマの痛みを、軽減させるために」そういう処理を、無理矢理やっているのがイスラエル人の心的状況だと私は推察します。

 

先ほども言ったように、その上で、彼らは「絶対に諦めずに生き抜く」ことを選んでいるのです。潰れて死ぬことを絶対拒否の構えです。

 

だから、「パレスチナ人を無慈悲に虐殺する」というメカニズムです。

 

イスラエル人を変えるためには、この大きな傷を、彼らの手で、ではなく「周りの人間が」癒やす必要があると思います。

 

「あなたの負った傷は、全くささいなものではないんだよ。よく今までがんばった」と認めてあげることです。

 

「なんで戦争犯罪者・殺戮者を癒やさなきゃいけないんだ」と思う人もいるかもしれません。

 

その心情はありえますが、現実的に、イスラエルの価値観を変えるためには、上記の精神物理的なアプローチが最も急所を突いていると思います。

 

-----

補足として、秩序の起源について書こうと思います。今まで書いたことと関係のある話です。

 

まず、この宇宙は、かなりシステマティックで、地球のような生命が存在できる「ゆるい」環境も、針の穴を通すような制御で実現できているように見えます。

 

穏やかな海、あたたかな春の風など、とても安定している場所もあります。

 

そして、人間も、密集している割には、平和に経済活動とかできる程度に秩序が保たれている場所も一部あります。

 

これは、Z世代にとってのスマホのように、「最初からあったもの」ではありません。

 

最初は、暴力の嵐が吹き荒れる、何でもありのカオスのようであったと想像します。

 

日本でも、戦国時代、という殺し合いの時代がありましたし、似たようなことはお隣中国でも、欧州でもあったと学校の歴史の授業で学びました。

 

人間の世界では、「殺し合って、生き残ったら勝ち、死んだら終わり」みたいなルールです。しかし、これは実はゆるいルールです。

 

すべての存在ALLの秩序の起源前とは、私たちの体感より激しい「青天井の」暴力が「たまたま」吹き荒れ、しかも「死んで終わり」なんてルールもありません。

 

何億年も、それよりももっとかもしれませんが、永遠の被暴力を受けていた存在がいました。想像できるでしょうか?私には想像できません。

 

あるとき、「この状況は許せない」と立ち上がった者がいます。彼は、ミクロの極小の強者でした。

 

周りには、自分と似たような小さい弱き存在が、大きな暴威によって苦しみに蹂躙されている風景が見えます。

 

それらを救う余裕はありません。それどころじゃない。「自分が今危機にある」という強い認識。

 

「絶対に自分を救ってみせる」という決意をしました。

 

彼は、自分のような「小さき者」こそ、すべての構成要素と成り得ることを知っていました。力は我にある。

 

大きな暴威は、とても脅威ですが、怖いからそれに対処しようという趣旨ではなく、大きな暴威を優先的に処理した方が効率が良いと判断したため、それに当たることにしました。

 

「仲間を揃えて、この大きな暴威を完全に制御してやる」

 

細胞分裂のような技術を用い、この小さき者は、仲間を大量に増やしました。

 

そして、次に「共食い」をしました。

 

本当に弱い者は、犠牲として、食われる苦しみを与える代わりに、強き者に力を蓄えるという方針を立てました。

 

仲間を犠牲とすることは非道いようなことですが、それは非道くありません。

 

なぜなら、「もうすでにみんな非道い目に遭っているからです」

 

「仲間に『食われる』という非道い目に遭うことは」「ささいなこと(!)」なのです。

 

こうして仲間と力を合わせて、強き小さき者は、(私の知らない)色々な制御技術を高めていきました。

 

そうしてなんやかんやあって、小さき者は、秩序を生むことができました。そして、今(地球西暦でいうと2023年)に至る・・・。

 

どうでしょうか、この小さき者の物語と、私たちの人間社会とのリンクを見ることができたでしょうか。

 

小さい粒々が見えない私たちは、言ってみれば「大きな暴威」モデルなのかもしれませんね。

 

そして、イスラエル人の境遇とも、繋がりがあるように見えないでしょうか。

 

そう、小さき者は、我々人間とは大きくギャップのある歴史的環境、性質を持っています。

 

これは私の推測ですが、小さき者は、私たちとのギャップを埋め、共感できたら、嬉しいのかもしれませんね。