A diary 8/25その③

私はけっこう他人に気を遣わないのですが、この姿勢自体が問題があるかもしれません。

 

シビアな現実世界の中で生きていく上で、ただでさえ心がストレスで傷付いている人には、相応の癒やしが必要で、社会にとって役に立つ価値のある人間になるためには、協調や共感をベースにしたケアを積極的に、精度高く実行する必要があるからです。

 

うーん。

 

と書いてみたけど、なんかしっくりこないけど、一理ありますね。

 

これを突き詰めて、心の安心とか、至福感とか、達成感とか、万能感とか、大勢の大人が本気になって、感情の質・程度を高めた場合、どうなるんですかね?

 

私はプラスマイナスゼロを好むので、そこまで「幸せの絶頂だな~!」と思った経験が人生でほとんどありません。

 

敢えて言うなら、ホンジャマカ恵さんのラジオではがきが読まれたときと、スペシャルウィークステイゴールド万馬券を的中させたとき、が人生で最も感情が昂ぶった幸せな瞬間でした。

 

それは良い思い出だし、よかったのですが、いかんせんその幸福感は「通過列車」みたいに一過性なので、喉元過ぎればスーン・・・と気持ちは日常に戻ります。

 

その一時の高波を求めて、コストを費やそうという動機があまりないし、そもそもあんまり大きな感情の波は、考えるとき(公平なジャッジを下す判断をするとき)にノイズになるので、避けています。

 

私以外の人が、感情を大事にして、思いやって、気を遣って、多くの大人がよってたかって誰かをチヤホヤ「お姫様・王子様」扱いして、

 

で!その当人は「うれぴぃ~!」となると思いますが、そういう実例って世の中に実際にあるのか?そうなったら、結果どうなるのか?が知りたいです。

 

「うれしい、でおしまい♪」だったら、そこまでやる必要あるのかなぁと不思議に思います。

 

でもそんなに嬉しい、他人に愛されて優遇されて嬉しい、良い思い出ができた、「生きてて良かった」と本当に思うのならば、意味はあるんだろうなぁと思います。

 

私には、それは理屈では理解できるけど、それに該当する実感が無いので、これに関しては役立たずになってしまいますね。

 

もうちょっと人の役に立って、社会にとって価値のある人間を目指した方がいいのかもしれません。