甲子園の決勝戦(慶應vs仙台育英)のいろんなひとのヤフコメを見ていて、新たなる事実に気づきました。
それは・・・
・慶應の選手は良いけど、慶應側の応援がマナーを欠いていてダメ
・甲子園の応援の在り方を改善していくべき
みたいな観念が多くの人(ヤフコメの多く)にあるようです。
あっそうなんだ、と思いました。
みんな、野球の試合について感想を言っているのではなくて、応援している慶應OBの態度について感想を言っていたんですね。
なるほど、私はテレビで決勝の野球の試合しか見ていなかったので、それ以外のことはけっこうどうでもよかったんですが、多くの人は「応援している奴らが気に食わん」「あいつらに反省を促したい」みたいな横にそれた観点で言ってたんですね。
それなら、まぁ、そうなのか~と思うだけですが、「甲子園の応援の在り方を改善していくべき」とまで思うのか~とある意味目から鱗でした。
そもそも、応援している観客を、「みんなが不快にならないように制御しよう」という発想が私にはありません。
「応援の在り方」なんて個々の応援者(それぞれ性質や行動が違う個人)の集合体で、もし応援圧が過剰に高まってしまっていても、「結果的にそうなっちゃった」という解釈をします。
それを規制して、コントロールして、最適化していく対象として「相応しいのか?」という疑問が湧きます。
例えば、「お祭りの人の流れが密になりすぎて、転倒事故が起きちゃった」という事件が起きたら、群衆の誘導の在り方はどうだったのか、という検証は必要で、安全に向けて最適化する必要はあるでしょう。
でも、甲子園の応援は、人それぞれのテンションで思い思いにやることです。
大きな声で応援している人は、「もっと声のトーンを落として応援してください」みたいな規制をするべきだということでしょうか?
「一人単位の割り当てデシベル」みたいな縛りを設けたり?
甲子園に総デシベルを表示して、基準を超えたら警告アラートを鳴らすとか。
そこまでするんか~と私は思いますね。
「応援して、盛り上がったら、すごい圧が出たね」
という現実を、受け入れない?受け入れればいいだけの話だと思うのですが。
「甲子園で決勝戦を観て楽しむ」って趣旨だったのが
「みんなが快くなるために応援の在り方を改善していこう」という趣旨が覆っていくという。
まぁ、そんなに不快だったなら、改善してもいいと思いますが、
「なんでも改善マシーン」みたいな印象を受けました。
なんでもかんでも制御して、作り上げた「応援」って、無機質じゃないかなぁと個人的に思います。
その時、その場所だけの、特別な「生の応援」が良いですね。それがちょっと不快でも、それはそれでいいじゃないか、と思います。