日記 7/25

<今日の献立>

昼食:インスタント袋ラーメン(みそ味)

 

夕食:ハンバーグ、ナスのお浸し、冷や奴、りんご

 

前回ハンバーグに玉ねぎを入れずに作ったら、美味しくできたので今回も玉ねぎなしで作ろうと思ったら、父親から「玉ねぎを入れてほしい」と要望があったのでそれに従うことにしました。父はハンバーグにこだわりがあるんだなぁと思いました。

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一昨日と、昨日の日記の内容で、ほぼ私の今の行動基準は網羅できているので、もうあまり書くこともないです。

 

あるとすれば、機能性を高めるメソッドです。今日は人間が娯楽性じゃなく、機能寄りになるためにはどうすればいいかをテーマに書きます。

 

まず、以前も、現在も、私は機能性があまり備わっていないという事実があります。その原因は何かというと、「能力への不信」と「過度な独立」です。

 

私は以前は、他者に対して、「この人(たち)、能力的に及第点に達していないな」という判断をよくしていて、その目は自分自身にも向いていました。「私はこういう点で、へぼいな、ダメだな」などです。

 

その思い込みのような価値観を基盤として、じゃあ「他に頼らずに、自分が強くなろう」とか、「ある程度自分が強くなったなら、困ってる他を助けよう」みたいな発想が生まれました。

 

以上の考え方をしている生物は、「機能性」を持つことが難しくなります。どちらかというと、「機能を持っている」ではなく「障害になる」になるケースが多いです。

 

この逆をすれば、人間も、ある程度機能性を持つことができます。ある程度と言っているのは、以前の日記で述べたように、自由意志を持っていることがエラー事象であるという点を考慮した結果です。

 

機能性のある人間とは、「能力に関わらず、自他を信頼している」かつ「私は独立した存在であるという観念が無い、又は弱い」特徴を持っています。

 

「能力に関わらす、自他を信頼している」を、わかりやすく例を挙げます。

 

例えば「道でこけて膝をすりむいて泣いている幼児」。以前の私は、「この子大丈夫かなぁ?心配だなぁ、助けないとやばいかなぁ」と思っていました。

 

これは、「相手への親切」であると同時に、「相手への不信」でもあります。

 

親切にするかどうかは、個人がその時そのケース毎に自由に判断すればいいことですが、今、着眼しているのはこの「相手への不信」の部分です。

 

私が他に対して「不信」を抱いているとき、ALLも不信にさいなまれているということになり、これが機能性を著しく低下させる原因となります。

 

機能性を持つためには、相手がか弱い幼児であっても、あるいは盲目の身体的ハンディキャップを持っている人であっても、「対象の能力に関わらず、相手を信頼する」ということが必要条件になります。

 

同時に、その信頼は、自分自身にも向けるべきです。「私は、能力ないけど、でも、大丈夫」という信頼をして、「安心する」ことがとても重要だということです。

 

安心した状態でなければ、機能を発揮できない。

 

不安なまま、動き出しても、それは機能面で言えば失敗になります。

 

まずは、準備段階として、ちゃんと自他を信頼して、安心した状態で、仕事を始めることが重要になります。

 

で、もっと言えば、「過度な独立性」というものも否定されうるものです。

 

そもそも「独立する」必要性というのは、背景に「他への不信」や「自分の未熟さを否定したい気持ち」がそもそもないと存在しません。

 

「弱い自分が強くなって、不安な状況をなんとか乗り越えてやる」みたいな独立性は、メジャーな視座で見た場合は、エラー動作でしかありません。

 

よって、確かに人間は、「私は他とは違う」という観念を持っているのは事実ですが、より機能性を持つように努力するとした場合は、より「私」という概念が薄く溶けていく傾向が生まれます。

 

今の私の観念は、

 

「私は能力がない。それとは関係なしに、私は大丈夫なんだ。そして他も大丈夫だから安心だ。これから新しい技術を得る機会があるかもしれないが、そんなに急いで強くならなくても大丈夫、ゆっくりいこう」

 

というものになります。この状態が、「人間が機能性寄りになった場合」の観念の一例です。

 

私も、将来的には「私」は消滅するでしょう。今のところは人間で、「私」がありますが、まぁ、私が消えるまでのんびりやろうと思います。