ある人が当たり前にやっていることが、実は普遍的じゃなくて、重要なことだったりする。
スティーブ・ジョブズが「お前らがんばって働け!」と言ったときに、それを聞いた人がジョブズだったら(つまり独り言を耳に入れたら)そのジョブズはがんばれるでしょう。
でも、聞いた人が私だったら、このように言う。
「その前に、私には準備が必要です。あなたの固定観念を教えてください」と。
ということで、私の固定観念を今から書きます。「ラクに良い夢を見る」技術を広めたいからです。
【私の固定観念】
「夢とは、目的地ではなく、営み」
例えば、「プロミュージシャンとして売れて、有名になりたい」という夢は、私から見たら、それは夢ではありません。
夢とは、「音楽を通して、人を感動させたい」です。
もっと解像度を上げるなら、「アコースティックギターの弾き語りで、人に安心と安らぎを与えたい」とかです。
あるいは「B’zみたいな2ピースバンドで、いかつい兄ちゃん達のテンション爆上げさせたい」とか。
これらは目的地ではなく、What to doです。それを掘り下げてHow to doも含みます。
この営みは、すぐには良い成果が上がらないかもしれないですけど、今すぐやってみたら0.01くらいの成果が得られるかもしれない。
もしくは、失敗して、安心と安らぎを与えるどころか、逆に不安と嫌悪感を与えてしまいマイナス10の成果かもしれません。
マイナス10の成果でも大丈夫。私は「そうしたいんだ。それが私の夢」、だから続ける。
このように、夢を営みだと定義すると、失敗なんて怖くないのです。もちろん、人に不快感を与えて申し訳ない、自分が情けない、と涙するかもしれません。悲しい、悔しい。
でも、私は今夢を持っている。つらくたって大丈夫。いつかうまくできるといいなぁ。なのです。
と思って継続していれば、人によって差はあれど、ある程度技術は必ずつきます。挫折とは無縁です。
ちなみに私の場合は、若い時に、「情報処理(知)に極振りして、人としてアンバランスな強さを求める実験をしよう」という夢を持ちました。
思考はかなりのストレスフルですが、私はまったくそれが苦ではなかったです。なぜなら夢の中にいたから。それがしたかったから。
一方、夢を目的地としてしまうと、挫折があり得ます。
例えば私はちょっと前に「数学を勉強して、アルゴリズムを勉強して、『AIコードを解読できるようになろう』という目標を持ったんですね。
これは目標だったのですが、夢ではなかった。数学は少しは面白みがありますけど、あんまり面白くありませんでした。だから挫折しました。
でも今なら、こういう夢を持つかもしれません。
「みんなの笑顔を、脅威になりうるAIから守ろう」
解像度を上げると、
「AIのメカニズムを全解明することによって、正しいAIとの付き合い方を開発し、みんなの笑顔を、脅威になりうるAIから守ろう」
この夢だと、取るべきアクションは、最初に「数学」ではなく、まず「AIコードを見ること」なんですよね。
まず、ぶつかってみる。だって私はAIを解析したいんだから。
で、見ると、「わけわからん」です。「意味不明、なんだこれ」です。
じゃあ、どうすれば解明できるか。プログラミング言語がわからんと始まらん。
プログラミング言語の教科書買ってきて、それを辞書代わりに、コードの翻訳作業です。
死ぬほど時間かかるかもしれませんが、時間かければ多分、コードの意味はわかってくるでしょう。つらい。目が疲れる。でも大丈夫、まだAIは世の中でそんなに脅威になってないから、猶予がある。
こんな感じで、夢を目的地ではなく、営みそのものとして捉えると、「やるべきこと」が欲動のままに、自分にとって適切な手順が踏めるんですね。
AIからみんなの笑顔を守りたい夢を見ている人は、数学からは入らないです。
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長くなったので総じて補足を入れますが、
最初に「私の固定観念を書きます」と述べたように、「夢とは目的地ではなく、営み」という定義は、もちろん私の定義です。
なので、「いや、私の夢は目的地、金持ちになって人からチヤホヤされることだよ!」という人がいても、それはそれで構わないと思います。
ただ、それでいくと、「挫折」があり、「苦労の拒否」が起こります。
苦労ほとんどしないでうれしいってことは、誰かがどこかで泣いている、ということです。その誰かは人かもしれませんし、もしくはスギの木かもしれません。
私はそう思っているので、「苦労の拒否」はしません。ただし、それは辛いです。だからこそ、「夢」を見ます。で、結局トントンくらい、幸せプラマイゼロなら、いいなぁと思っています。
さあ、どうでしょうか?何を選ぶかは、あなた次第です!