数学B図形問題

毎日チビチビ数学を勉強しています。勉強時間は1日30分くらい、かなりスローペースです。大体30分経過したら集中力が切れるので満足してやめてしまいます。

 

数学Bの図形問題をやっているのですが、進捗は全体の6割くらいを消化しました。図形問題は本当にパズルなので、「そもそもこの問題解かないといけないのかなぁ」と根源的な疑問を抱きつつ、やってみようと意欲もあり、そのせめぎ合いの中でやんわり問題に取り組んでいます。

 

今日は三角形や四角形の各点が円に内接している場合の演習問題を2問解きました。

 

しばらく図形とにらめっこした後、めずらしく自力で解けました。「あぁ、解けたな」と感動もないのですが、答えを全く見ずに解けたのでちょっと成長したのかな?と嬉しくなりました。

 

「失敗は成功の母」と言われているように、「どうやったら成功するか?」ではなく、「どういうメカニズムで失敗(問題が解けない)が発生しているのか」に良く注目すると結果的に成功への道が示されがちという「定石」があります。

 

なので、もし本気出すなら解けない自分をめっちゃ観察すればいいのですが、いかんせん数学の問題解けても「あぁ・・・そうだよなぁ」と、当たり前なことが当たり前だということを確認する無感動な営みに魅力が感じられず、没頭できずにいます。

 

オイラーの定理とか、「美しい」ものに価値がある、ということは逆に言うと、美しくなければあんまり価値が無いという共通認識があるわけで、私も美しい定理を発見できたら喜ぶかもしれませんが、それをやる実力がないので蚊帳の外です。

 

しかし最近、あまりにも図形問題が解けないので、ちょっと「図形問題が解けないとはどういうことなんだ?」と考えてみました。

 

数学の図形問題はスタートで「図形とその条件(角Aが何度とか)」が示されて、ゴールの条件を満たすまでの空白をロジックで埋めていくという流れですね。

 

私はめんどくさがり屋なので、スタートから一手で王手したくなってしまうのですが、だいたいの模範解答を見ると、ある種の飛躍・・・将棋で言うと初心者にとっては意味不明な、プロが打つ「歩」みたいな手が必要になってくることがわかりました。

 

なので、スタートから考えられる次の手の選択肢の全列挙、だけではなく、ゴール側からの逆算による「王手」の可能性の全列挙をする。そのスタートから伸ばした手と、ゴールから伸ばした手が握手するような(繋ぐような)論理の道筋を見出そう、という方法論に頼ることにしました。

 

すると、問題が解けました。やっぱり失敗は成功の母だということを再確認できました。

 

さらに見つけた発見は、数学には必ずゴールがあるということです。国語の世界にはゴールはありません。スタートから数多の手が伸びて、拡散していく、それらは自ら収束せずに、主に自然界における淘汰によって、殺されて間引きされていく、私の生きてきた世界はそんな感じです。

 

しかし数学はゴールがあるんだった!という当たり前だけど盲点に気づき、これはなかなか興味深いぞと思いました。世界の始まりと終わりの学問と言えるかもしれません。

 

私は終わりを目指すことのみを念頭に置いて生きてるわけではなく、その中ほどの過程をどうデザインするか、に注力しています。もちろん、最終的には終わりを目指して終わらせるのですが、まだまだ能力的に未熟でそんな段階とは程遠いので、旅道中で楽しんだりハラハラしたりして過程を大事にしていこうと思っています。

 

数学は世界を終わらせることのキーのような存在だなぁと思い至りました。おそらく、宇宙が終わる瞬間には、かなり複雑な回路をエネルギーが通って、今生きてる人間とかが簡単には意図的に終わらせられないような仕掛けがあるのだと思います。

 

それは「終わらせさせないためのプロテクト」なのか、はたまた「それにキーを差し込んで解いてほしい願望がある」のか、どっちかですが、ちょっと今の私ではどちらが的確なのか判断がつきません。

 

まぁ私は破壊に関しては得意なので、別に正規ルートで終わらせられないなら、破壊的な別手段で瓦解させるとかも発想としてはあります。

 

それでは十分ではない、ちゃんと正規の手続きを経て終わらせる必要がある、という確信を、道中の後半くらいに得るんだろうな、と予想しています。

 

まぁ今は数学を勉強するだけだから気楽ですね。