未来の人間社会の構想 その3

未来の人間社会を構想してみようのコーナーです。今回は、その2でちょっと触れた「人口管理」について考えようと思います。

 

人口管理とは、「人間の数の総数を〇〇人と定めて、それに応じて生殖機会を増やしたり減らしたりすること」を意味しています。ポイントは、「人類の事業規模」「年代別人口比率」ですね。

 

戦後日本のように、とにかく子供を増やして経済成長していこう、という時代は、実際子供が増えましたね。このやり方は、外食チェーンやコンビニが店舗を増やして、掛け算で収益を増やすのと同じやり方で、発展途上国ならば、必ず通る道かな、と思います。

 

貧乏の状態では、家単位のレベルでも、子供をたくさん産んで働いてもらって家計の収益を上げよう、というやり方が、最も簡単で、実効性のある策となります。

 

ただ、経済の需給の関係でいくと、1人当たりが生む「付加価値」は需要と供給のバランスに依存するので、簡単に言うと「同じ生産をどんどん続けると、付加価値はどんどんゼロに近づいていく」ことになります。

 

「1人労働当たりの付加価値×人数」が重要な値であって、その総収益から、お給料つまり「人間の飯」を人数分支出することになります。

 

よって、人数を増やし続けることの2つの弊害は、「総収益の頭打ち」「事業規模拡大に伴う費用増大」この2点ですね。

 

日本の場合、事業規模を拡大しまくって、供給しまくって、それに見合う需要が必要であることから、海外に進出したところアメリカに頭を叩かれて挫折、需要を取り込めず、供給過多になり、1人労働当たり付加価値の減衰、総収益の頭打ち、しかし飯を食わせなきゃいけないので費用増大という流れを通っています。

 

で、じゃあ収益は上がらないから、飯を減らそう、正社員減らそう、外国人の技能実習生で人件費下げよう、というのがNOWですね。

 

まるで水が高いところから低いところに流れるような、レットイットビーの世界です。当事者目線でいうと、「がんばったから成功した、今はがんばってるけど上手くいかない、もう他人を犠牲にするしかない、自分は滅びたくない、幸せに死にたい」みたいな発想ですが、客観的に見ると、ごく自然な流れをいってるな、という印象です。

 

これを批判するのは「海や山はけしからん」というのと同義なので、過去の時代からの遺産や、負の遺産をまとめて背負って、現役世代は生きていくことになるでしょう。

 

で、未来の人間社会はどういう絵なのか、というと、「経済発達したり、衰退したり、その小ブレの間をフラフラしつつ、ゆるやかに発達していく」形になると思います。

 

「衰退しないで発達していく」というのは実際コントロールが難しいので、上記のように衰退もある程度許容していく、ただし、長い目で見たら必ず勝つ、というのを目指します。

 

そのために、まず「年代別人口比率」は、全ての年代が同じ人数、がいいですね。寿命による自然死があるので、実際にはグラフにすると、上の方がしぼんでいる、長方形みたいなグラフになります。これで、年代別比率で問題(発達と衰退の大きなブレ)が起こる可能性はほぼないです。

 

で、問題は「人類の事業規模」ですね。これは、ひとつには有限量の「資源」に依存するし、「政府の統治能力」にも依存します。

 

資源は可算なので、普通に数えて集計すればいいですね。そして政治家にとって、「対象がでかすぎて隅々まで目が届かない、手に負えない」という事態は避けなければいけません。

 

未来の人間社会は、比喩ですが、「村」的なものになると思います。個人レベルのかかえている問題を、トップの政治家の頭の中に入りきるくらいのレベルがいいですね。

 

それを助ける、情報収集・処理技術は育てるとしても、トップは同じ人間ですから、適正な人類の事業規模というのは、その解はおのずと小規模なものになります。

 

各地に「村的」な集落を何個か作って、それぞれの自治によって運営していく、村同士で、情報交換はやるけれど、全ての村を統括する機関は設けない、みたいになるでしょう。それで、地域差によって、いろんな方向の進化をするのも面白そうですね。

 

村はどのくらいの規模かなぁ、と考えたんですが、それに関して無知なので、大体の感覚でいうと、5万人くらいかな、と思っています。

 

本当はもう少し小さくしたいんですが、前回、医療部門も、ある程度大きな事業規模になることがわかったので、5万人くらいいないと無理そうです。

 

今、日本は東京一極集中なので、これは将来的には崩れると思います。